15歳からの教理

天理教教会本部准員/天理教山名大教会長 諸井 道隆

第5回 ほこり


ほこりを払うことは、感謝すること

ある親しい政治家の方が以前、出先で転んでけがをされたことがありました。幸いけがは左足首のねんざで済みましたが、それでも足首がパンパンに腫れあがってしまい、しばらく歩行困難になっていました。しかし、次の日の夕方には、どうしても治って普通に歩けなくては困る事情があるというので、当日の朝、私が「おさづけ」を取り次いで親神様(おやがみさま)にお願いすることになりました。

おさづけを取り次ぐ前に、せっかくの機会なので、次のような話を聞いてもらいました。

まず、身体は親神様からの借りものであり、病気やけがは罰ではなく親神様のお手引きで、あなたが転んでねんざをしたのは、近い将来、政治家として本当に転んでしまう所をその前にねんざぐらいのけがで親神様が大切なことを教えようとしてくださっているのではないか。

あなたが政治家として一線で活躍できるのは、あなたを支えてくれる家族や周囲の人々の協力があってこそで、あなただけの力ではない。そして、それ以上に親神様が毎日、生命(いのち)の守護を下さっているからこそで、それが無かったならば、あなたにどんなに知恵や能力があっても、この仕事は続けてこられなかったたろう。

大切なこととは、感謝の心。人は、それを忘れてしまったときに、自分の能力への過信や驕りが生まれて、いつか必ず行き詰まることになる。この感謝を忘れた思い上がりの心を「こうまん」と教えられる。親神様はそれを指摘してくださっているのではないか。だから、謙虚になって、今政治家として仕事をさせてもらえることに感謝し、親神様が今日まで下さったご守護にお礼をして、ご恩に気付かなかったことにおわびをさせていただきましょう。

というような話をしましたら、その方は、とても感じるところがあったようで、目を潤ませながら聞いて心を定めてくださいました。そして、おさづけを取り次がせていただいたのですが、不思議なことが起こりました。数時間のうちに腫れが引いて、夕方には普通に歩けるようになるという鮮やかなご守護をいただいたのです。

「病のもとは心から」と聞かせていただきますが、心を入れ替えて願うことで鮮やかなご守護をみせていただいた実例です。

前回の「かしもの・かりもの」の話では、私たちの身体は親神様 からの借りもので、自分のものは心一つだけであると書きましたが、『天理教教典』には、さらにその心の使い方が皆さんの人生のあらゆる事柄を左右しているとして、次のようにお教えくださっています。

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定る。それを、心一つが我の理と教えられる。
(中略)
 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他にも及ぼして、世の中の平和を乱すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

(66頁)

ほこりとは、親神様の陽気ぐらしの思召に添わない心遣いのことを指し、その代表例として「八つのほこり」をお示しくださり、心の中に埃のように降り積もる、それらの心遣いをいつも掃除するようにと教えられています。

そして、それぞれの身上(身に現れる病気)や事情(困ったこと)は、たまった埃の掃除を促される親神様のお導きであるとされています。すなわち身上や事情は、罰ではなく、子どもの行く末を心配される親神様の親心あふれる手引きであり、メッセージなのです。

また、嘘と追従も戒められています。追従とは、辞書によると「人のあとにつき従うこと。転じて、こびへつらうこと」です。

世間をにぎわす事件の記事を注意深く見てみてください。世の中でおよそ悪事とされる事柄は、この嘘と追従で構成されていることに気付くはずです。すなわち、嘘をついたり他人をだましてまで自分の欲望を叶えたり、不正な利益を得ようとする人と、悪いこととは知りながらも欲望や保身、あるいは心の弱さからそれに加担したり、つき従ってしまう人の二種類の人間で成り立っています。

それも、よく考えれば、どちらも動機は、「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の心が元になっていることに気付きませんか。小さなほこりのうちに小まめに心の掃除をすることが、道を誤らないための大切な心得です。

では、ほこりを払うとは、どういうことなのでしょうか。八つのほこりの中でも「よく」と「こうまん」を取り挙げて少し考えてみたいと思います。

最初に話題にした政治家の人は、心を入れ替えることで不思議な「おたすけ」を頂きましたが、一体あのけがは、教理から言うと何のほこりが原因だったのでしょうか。

それは、私は「こうまん」だと思っています。高慢とは、教理書によると、

 力もないのに自惚れ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけにする。また、頭の良いのを鼻にかけて人を侮り、人の欠点を探す、あるいは知らないことを知ったふりをするような心。


『ようぼくハンドブック』49頁

と聞かせていただきます。

しかし、その人は、普段からとても謙虚で立派な人でした。では、何がどう高慢だったのかと言いますと、それは、親神様から見て高慢だったのではないかと思うのです。

私たちは、親神様の大いなる親心と十全の守護に守られて生きているということは、これまで繰り返しお話してきた通りです。それなのに、そのことに気付かない。あるいは、忘れている。それどころか自分の知恵や能力のみによって今を生きているように思い込んでいるのは、本人にそういう自覚はなくても、親神様から見れば思い上がった高慢な生き方として映るはずです。また、慌ただしい日常生活の中でご守護への感謝をつい忘れてしまうことは、信仰を持っている私たちでもあることで、その点で「こうまん」のほこりは誰もが持っているほこりなのです。

問題は、この小さなほこりを放っておいて積もり重なるとどうなるのかです。感謝を忘れた心は、いつしか自分の力だけで生きているという勘違いになり、それが態度に現れると、たとえば「すべて俺の努力のおかげだ」「この仕事は俺の能力が高いからうまくいっている。だから誰よりも俺が上に扱われなくてはおかしい」というような、過信、驕り、高ぶりの心に支配され、知らず識らずのうちに、そうでなくては気が済まないというような傲慢で独善的な行動に出てしまいます。そして、これが陽気ぐらしを妨げて社会を暗くし、自分をも不幸にしてしまう元凶となるのです。

このように、「こうまん」のほこりは、感謝を忘れた心が種となって成長するのだと思います。ですから、日々にどんなときも自分の存在を支えていてくださる親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)の十全の守護を念じて心に感謝を生み出して、ほこりを元から掃除していくことが、人の生き方として必要なのです。

次回は、続いて「よく」について考えたいと思います。

つづく

※心に感謝を生み出して
ほこりを元から掃除していくことが、
人の生き方として必要


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