第11回 さづけ

もくじ

15歳までは親の心の「ほこり」の現れ

もう何年も前のことですが、私の子どもがまだ幼児の時に、風邪をこじらせて高熱がしばらく下がらなかったことがありました。

自分の子どもが病気やケガをした時に苦しそうにしている姿を見るのは、親としては非常に切ない思いをするものです。
しかし多くの人の場合は、お医者さんに診てもらって、薬を飲ませて効果が現れるのを見守るくらいしかしてあげられることはないように思います。
親が何とかその痛み苦しみを取ってやりたいと思っても、「頑張れ」とか「大丈夫」と声をかけ続けるか、汗をぬぐい、胸をさすり、氷枕を替えてあげることぐらいしかできません。

しかし、私たちお道の信仰を持っている者には、幸いにもそういう状況になった時にしてあげられることがまだあります。
それは、「おさづけ」を取り次ぐことです。

子どもは元来ちょっとしたことで熱が出たり病気をしやすいものです。
み教えには、15才以下の子どもの病は、親の心の「ほこり」の現れだと聞かせていただきますから、私たち夫婦は、そのたびに2人で心遣いをよく反省して、親神様(おやがみさま)にお詫びの理立て(お供え)をさせていただいてお願いしたものでしたが、ありがたいことにおさづけを取り次がせていただくとピタッと熱が下がる不思議を何度も経験しました。

おさづけの理を授けていただける私たち天理教の信仰は、本当にありがたいと思います。
しかし、実は、おさづけで不思議が現れるのは、100%私の力ではありません。

おさづけとは?

この連載では、これまで何回かおさづけの不思議なご守護話を紹介しましたが、今回は、そのおさづけについて書きたいと思います。

まず、おさづけは、どうしたらできるようになるのかということですが、それは、「おぢば」へ帰らせていただいて、別席を運んで親神様のお話を9回聞かせていただいた者が、み教えに心を澄み切らせて、「たすけ一条」を誓う真心に、ご存命のおやさまから真柱様(しんばしらさま)を通して「おさづけの理」が渡されます。
別席は、満17才以上の人なら誰でも運ぶことができます。

おさづけには、もともとは幾つかの種類がありましたが、現在は、その中の「あしきはらいのさづけ」という「てをどりのさづけ」を下されます。この「さづけ」は、「あしきはらいたすけたまえ てんりおうのみこと」を3回唱えて手を振り、「なむたすけたまえ てんりおうのみこと」と唱えながら、患部を上から下へ3回なでる。
これを3回繰り返すもので、道具を必要とせずに心と身体一つでどこででもさせていただけるありがたいおさづけです。

 

私たちのおやさまが、明治20(1887)年陰暦正月26日に御齢90才でお姿をお隠しになられたことは、前回、前々回に書きましたが、おやさまはご在世中に常々115才まで生きられると仰っておられたので、お側の人々はすぐにおやさまがお姿をお隠しになった理由を親神様に伺いました。
すると次のようなご神意が下りました。

子ども可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
(中略)
さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

『おさしづ』 明治20年2月18日

このお言葉の大意は、『稿本天理教教祖伝』を参考にするとおよそ次のようになります。

子どもかわいいばっかりに、その成人を促そうとて、まだ25年先ある命を縮めて突然身を隠した。
今からいよいよ世界を駆け巡ってたすけをする。
さあこれまでから、子どもにやりたいものもあった。
なれど、思うように授けることができなかった。
これから先、だんだんにその理を渡そう。

そうです。
このこれから渡そうと言われる「理」というのが、おさづけの理なのです。
実際に、この時を境に、以後多くの熱心な信仰者がおぢばに引き寄せられておさづけの理を拝戴させていただけるようになりました。

「ようぼく」とは?

また、おさづけの理を戴いた人を、「ようぼく」と呼びます。
ようぼくとは、漢字にすると「用木」と書き、親神様の望まれる陽気ぐらし世界を建設するのに役立つ用材という意味です。
おふでさきには、そのようぼくについて次のように記されています。

たん/\とよふぼくにてハこのよふを 
はしめたをやがみな入こむで

『おふでさき』 15号 60

このよふをはじめたをやか入こめば 
どんな事をばするやしれんで

同 15号 61

このお歌では、ようぼくにはこの世を始めた親、すなわち親神様が入り込んでくださってたすけのご守護を現してくださることを言われています。
したがって、おさづけの働きの主は、人間ではなく、ご存命のおやさまであり、親神様なのです。
ですから私たちは、「おさづけをする」とは言わずに「おさづけを取り次がせていただく」と言います。

おやさまにとって世界中の人間は、みなかわいいわが子であります。
なでてでも、さすってでも、たすけてやりたいとのあつい親心。
その親心をわが心に込めておさづけを取り次がせていただくところに、おやさまが力を下さいます。
そうして、おやさまは、ようぼくの取り次ぐおさづけに乗って、世界の子どもたちのたすけのために世界中を駆け巡ってお働きくだされているのです。

私の教会は、古くから台湾で布教を始めてもう110年以上の歴史がありますので、今も現地には大勢の台湾人の信者さんがいて、私も頻繁に台湾に通っています。

世界の心の理をつなぐ

台湾では、拠点にしている教会で月次祭(つきなみさい)を勤めると祭典後には決まっておさづけを願う人の列ができて、何人もの人におさづけを取り次がせていただきます。

おさづけを願って来られる方は天理教を信仰している人だけではありません。
中には、仏教や道教、キリスト教など天理教とは違う信仰を持っている人が、知り合いに誘われて参拝し、おさづけを願われる場合もあります。
また、私は、中国語は少し分かりますが、台湾語はまったく分からないので、おさづけを願う方の身の上話は、半分ぐらいしか理解できません。
しかし、それでも心を込めておさづけを取り次がせていただけば相手の心に届き、必ず親神様のご守護とおやさまのお働きを感じてもらえます。

そうやって海外の地でおさづけを取り次がせていただいていると、私は、いつもすごく不思議だなあと感じることが一つあります。

それは、おさづけに言語や人種や文化の違いなどは、まったく関係なく、たとえ言葉は通じなくとも、また初めて会った人でも、ただおたすけの心を込めて身体の悪いところをなでて、さすらせていただくだけで、誰とでもまるで以前から親しい友人のようになってしまえることです。
こんなことは普通の人間関係ではなかなかあることではありません。

それは、自分の利害など何も無く、ただ純粋にたすかってもらいたいという真心が、おさづけという行為を通して、直接相手の心に届くからだと私は理解しています。

おさしづに、おさづけについて親神様の次のようなお言葉があります。

日々さづけ/\の繋ぎやない。世界中の心の理を繋ぐのや。さあ二重にも三重にも繋ぐ。

『おさしづ』 明治25年1月12日

世界の心の理をつなぐ。
本当にそうだなあと思うのです。
私は、このお言葉に、おさづけを取り次ぐようぼくが一人でも多く世界に増えることで、世界の人々に互いたすけ合いをさせて、陽気ぐらしを実現していこうという親神様の壮大なご意図が感じられてなりません。

おさづけは、おやさまの世界中の子どもをたすけたいという切なる親心によって下さる、この世で最も美しく素晴らしい宝物です。

若い皆さんたちも、満17才になったら、おぢばへ帰らせていただき、別席を運んでおさづけの理を拝戴して、ようぼくの一員となってくださることをお願いします。

つづく

※『Happist』2010年4月号掲載

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