第10回 ようぼくの務め

『天理教教典』第九章では「ようぼく」について書かれています。

さづけの理は、よふぼくたる銘々(めいめい)の心に授けられる天の与えである。

『天理教教典』 86ページ

また、

さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

同 87ページ

とあります。

皆さんもご承知の通り、「ようぼく」の大切なご用の一つは、病む人におさづけの理を取り次ぐことです。

これまで書いたように、私は「おさづけ」の取り次ぎを通して、さまざまな不思議を見せていただきましたが、中でも忘れられない出来事があります。

もくじ

ある信者さんのおたすけ

布教中のことです。
私は会長としてお預かりした教会の復興をすべく、毎日「にをいがけ」「おたすけ」に奔走していました。

そんな中、ある1人の信者さんと出会いました。
この方(Sさん)は、若い頃は教会のためにいろいろと親身になって尽くしてくださった方でした。
おつとめ」の鳴物をはじめ、教会の備品まで必要な物は真っ先にお供えしてくださいました。

しかし、ある出来事をきっかけに、Sさんは教会とのつながりを絶ってしまわれたのです。
昔のことなので、私には詳しいことまで分かりませんでしたが、所在を知り、訪ねたところ、「よく来てくれたね」と大変喜んでくださいました。
幸い自宅に講社を祭っておられたので、毎月おつとめを勤めさせていただくことになりました。
Sさんは私との出会いをとても喜ばれ、昔の教会の様子など、懐かしい思い出話を語ってくださいました。

しかし、それもつかの間、Sさんは肺気腫(はいきしゅ)となり、毎日の闘病生活が始まりました。
肺気腫は、自力呼吸が十分にできなくなる大変つらい病気です。
私はこの方との出会いを通して、何とか教会の復興をしたいと考えていました。
ともかくたすかっていただきたいと、毎日車で1時間かけておさづけの取り次ぎに通いました。

ところが1カ月後、教会の月次祭を勤めた直後に、Sさんの奥さんから「主人の容体が急変し、救急車で病院へ運ばれました。今は集中治療室です」と連絡が入りました。

精神一つの理

私は急いで病院へと車を走らせました。
その道中、「何とかたすかってほしい。でも、無理かもしれない。私にたすけられるのだろうか? 分からない。そんないいかげんな心でたすけられるか! なぜ行くのか……」
そんな思いが頭を巡りました。
しかし、「教会長として、これまで教会のために尽くしてくださったSさんに、まずはお礼を申し上げることが大切ではないのか」
そう思うと、ようやく心が定まりました。
その時、私は『天理教教典』第九章にあるおさしづを思いました。

精神の理によって働かそう。精神一つの理によって、一人万人(いちにんまんにん)に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしっかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。

『おさしづ』明治31年10月2日

もう迷いはありません。
集中治療室に入ると、すでに奥さんや子どもたち、親族の方が固唾(かたず)をのんで見守っておられました。

「あなたは誰ですか!」といぶかる医師に、「私は天理教の布教師です。この方とは信仰を通してお付き合いをしています」と答えました。
医師はけげんに思ったのでしょうが、奥さんが「主人にとって大切な人ですから」と、とりなしてくださいました。
Sさんは、まだかすかに息をしておられました。
私は「あぁ、よかった。間に合った」と心から思いました。

Sさんの目は閉じていて、意識があるとは思えませんでしたが、「今まで教会のためにありがとうございました。お礼を申します」と語り掛け、おさづけを取り次ぎました。

最期のメッセージ

その時です。
もはや意識がないと思われたSさんが、全身の力を振り絞るように上体を起こしたのです。
見れば一筋の涙が頬を伝っています。

私はもちろんのこと、その場の皆さんは「ワァーッ」と歓声を上げました。
そして、皆さんがベッドを取り巻いて「ありがとう」と言ってくださいました。
医師の「聞こえていたのですね」という言葉を聞いて、ようやく私は目の前で起こった事態を理解することができました。
そしてSさんは再び眠りに入られました。

翌日、Sさんは静かに息を引きとられました。
葬儀の場で奥さんは「最期に髙見さんにお礼を言いたくて、最後の力を振り絞ったのでしょう。主人の涙はうれし涙だったのだと思います」と言ってくださいました。

私は、Sさんが「私の人生は、信仰をして本当によかった。最期に君と出会えて本当によかった。最後の力を振り絞って、君にそれを伝えたい。どんなことがあっても信仰を続け、教会長を頑張るんだよ」と教えてくださったのだと確信しています。

おさづけの取り次ぎとは、取り次ぐ者も取り次がれる者も、お互いに今生かされている命を確かめることなのだと思いました。

たん/\とよふぼくにてハこのよふを
はしめたをやがみな入こむで

『おふでさき』 15号 60

このよふをはじめたをやか入こめば
どんな事をばするやしれんで

同 15号 61

とあるように、おさづけの取り次ぎを通して、私たちは一つ一つ信仰の喜びを確かめていくのでしょう。
まさに、「出会い ふれあい たすけあい」の世界です。

つづく

※『Happist』2014年1月号より再掲載

この記事をみんなにシェア!
もくじ