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逸話篇にまなぼう

七「真心の御供」


先生、こんにちは。
今年は「こどもおぢばがえり」も「学修」もないから、何だか元気が出ないんですよね……
何か面白いことありませんか?

そうですね。行事がなくて、寂しいですね。
それなら、最近配信が開始されたドラマ『はっぴす学園』を見てみるのは、どうかな?

『はっぴす学園』!?
それ、なんですか? 

月刊誌〈Happist〉で連載されていた人気漫画がドラマ化されたんです。
学生担当委員会YouTubeチャンネルで見ることができますので、ぜひ一度見てみてください (^^)

分かりました。
先生、ありがとうございます!

それでは、今回は『稿本天理教教祖伝逸話篇』の、七「真心の御供」に学ばせてもらいましょう。

今回のポイント

教祖は、見た目の立派さや一般的な価値ではなく、そこに込められた「真心」をお喜びくださいました。

七 真心の御供

中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅(こもち)を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。
すると、教祖は、いつになく、
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅(あんもち)が入っていた。
例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、
「直(す)ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体(てい)であらせられた。
これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗(つ)いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭(かげ)だ。何は措(お)いてもお初(はつ)を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
こういう例は沢山(たくさん)あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣(まい)るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
そして、中に高慢心(こうまんしん)で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要(い)らんのに無理に食べた時のように、一寸(ちょっと)も味がない。」
と、仰せられた。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』 5ページ

この逸話は、僕の好きなお話なので、よく覚えています。

そうなんだね!
このお話は、教祖(おやさま)が何をお喜びくださり、何をお受け取りくださるのかという基準についてのお話ですね。
まず分かるのは、教祖は見た目の立派さや一般的な物の価値では評価されていないということですね。

教祖は、品物よりもその人の真心をお喜びくださるんですね?

このお話では、一方の人は、たくさんあるからといって、お屋敷にお裾分けのような気持ちで持って来た。
また一方の人は、つきたてのお餅の一番最初の「お初」を親神様・教祖にお供えしていただきたいという気持ちで持って来た。
それに対して、教祖は前者には「ああ、そうかえ。」と喜ばれず、後者には「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」と喜ばれました。
そこから推察するに、教祖は「これも親神様のおかげだ」というご恩報じの真心をお受け取りくださり、お喜びくださるのだということが分かりますね。

「これも親神様のおかげだ」っていう気持ちが、「ひのきしん」と似ていますね。
親神様のご守護に対する感謝の気持ちを行いや態度に表すのが「ひのきしん」ですよね?

おっ! いい気付きですね。
このお道の信仰において「どんなことも親神様のおかげだ。ありがたい」って、感謝してお礼を申し上げることが、とても大切なことなんです。
そういった人の真心は、ちゃんと親神様・教祖に届いているということなのだと思います。
「一寸も味がない。」と仰っているけど、親神様・教祖は私たちの真心を楽しみ、味わってくださっているのですね。

僕たちの心次第で、親神様・教祖にご満足いただけるんですね。
僕も毎日、感謝の心を忘れず、ひのきしんを頑張ります!


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