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逸話篇にまなぼう

二六 「麻と絹と木綿の話」


先生、こんにちは。相変わらず暑い日が続いていますね?

そうですね。でも、少し風が秋らしくなってきたような気がします。

先生、今回は天理教学生会の「運営委員会がおすすめする逸話篇」より、
『稿本天理教教祖伝逸話篇』の、二六「麻と絹と木綿の話」の逸話をお願いします。

わかりました。それでは、一緒に学びましょう。

今回のポイント

親神様・教祖(おやさま)の「たすけ一条」のご用を担う道具衆に求められる心とは、
(1)木綿のように、いつでも誰にでも隔てなく、変わらぬ真心が尽くせて、いつまでもその心が変わらない、ひとすじで正直な心。
(2)人のたすかりや満足のために、わが身やわが心を惜しみなく尽くすことのできる心。

二六 麻と絹と木綿の話

明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺(うかご)うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、
「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ。」
と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、
「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう。」
と、仰せになって、
「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故(ほうぐ)と一しょや。
絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸(ちょっと)古(ふる)うなったら、どうにもならん。
そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。」
と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』 40ページ

先生、教祖は木綿の着物以外は身に着けられなかったんですか?

それは、分かりません。このお話のポイントは、教祖が「木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで」と仰っていることです。
「神様は木綿がお好きだ」ということではなく、人の心の在り方を説いておられるんですね。

あ、そっか。すみません(汗)
じゃあ、神様が望まれる「木綿のような心の人」って、具体的にどんな人のことですか?

教祖は、麻、絹、木綿と三つの生地の素材に例えてお話してくださっています。
よく読み深めてみると結構厳しい内容です。
というのも、松尾市兵衛(まつおいちべえ)という先生は、教祖のお側に仕えられた先生で、初めて身上たすけの「おさづけ」を戴かれた四人の先生のうちの一人です。
そこから考えると、おそらくこのお話は、親神様のたすけ一条のご用を担う道具衆となる人について仰っているお話だと思います。
つまり、神様にとって使っていただきやすい道具衆になるための心の在り方ということですね。

ふーん。そうなんですね。

例えば、麻のように「夏に着たら風通しがようて……」というように、ある限定された場面や、ある特定の人に対しては良いけれど、別の場面、別の人に対しては違う顔を出す。
また、最初は良くても、すぐに心変わりしてしまって長くは続かない。
そういうコロコロ変わる心では神様のご用には使っていただきにくい。
いつでも、誰にでも、変わらぬ真心が尽くせて、いつまでもその心が変わらないというひとすじ心の人が、神様はお好きなのだと思います。

なるほど。確かに、そういう人なら安心してお付き合いできますね。

そうだね。ちなみに、「反故(ほうぐ・ほご)」というのは、「もう役に立たないもの。要らないもの」という意味です。

教祖は「絹のような人になったら、あかんで」って仰っていますね。
これは、どんな風に捉えたらいいんですか?

絹は高級品で見た目も良くて、昔からみんなの憧れの的です。
しかし、雑巾やおしめにするには、あまり向きませんし、意外と用途は狭いですよね。
これと同じで、プライドや見栄(みえ)の強い人は、ついつい気位(きぐらい)が高くなってしまい、神様のご用も選り好みしてしまい、
結局は神様のご用には間に合わない人になってしまうってことではないでしょうか。

なるほど。でも、人間の目から見たら「何が悪いの?」って思ってしまうかも。

そうだね。少し厳しく感じるね。
まあ、いずれにしても、教祖がここでお伝えになりたかったことは、木綿のように、いつでも、誰にでも、変わらぬ真心が尽くせて、いつまでもその心が変わらない、ひとすじな心。
人のたすかりや誰かの満足のために、わが身やわが心を惜しみなく尽くすことのできる心。
そういう心を親神様はお望みくださり、お受け取りくださるということなのでしょうね。

なるほど。分かりました。
僕も木綿のような心の人を目指します!


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