「ひながたの親」のお立場について考えよう!

「Happist」読者の学生の皆さん、こんにちは。

前回は、教祖の三つのお立場の一つ目、「月日のやしろ」について勉強しましたが、今回は、二つ目の「ひながたの親」のお立場について考えたいと思います。

教祖は、今から224年前の寛政10(1798)年4月18日にお生まれになり、幼少の頃から、することなすことが他の子どもとは違っておられました。

6歳の頃には裁縫を始められ、近所の子どもに自分が作った物を与えることを楽しみにされ、泣いている子どもがいたら、自分が親からもらったお菓子をあげて、子どもが泣きやむのを見て喜ばれました。また、素直で親孝行な方で、いつも喜んで母親の手助けをされました。

その人柄を見込まれて、13歳で中山家へ嫁がれて後も、嫁ぎ先の両親には孝行を尽くし、夫によく仕えて少しも逆らうことなく、一家仲むつまじく暮らされていました。

また、大変働き者で親戚や知り合いの評判も良く、中山家の使用人たちにもいつも優しい言葉を掛けていたわり、とても行き届いた心配りをされましたので、みんなから慕われておられました。

教祖のお若い頃のお話はたくさんあります。中山家の米を盗みに入った盗人を

貧に迫っての事であろう。その心が可愛想や。

『稿本天理教教祖伝』第2章「生い立ち」 19頁

と、かえっていたわりの言葉を掛けられた上、米を与えて許されたという話。

怠け者の使用人に対して、来る日も来る日も「御苦労さん。」(同頁)と、優しい言葉を掛けてねぎらわれ、最初はそれをよいことにして怠け続けていた怠け者も、やがて、これでは申し訳ないと気付いて働きだし、後に人一倍の働き手となった話など、人として手本となるお話はたくさんあります。

しかし、それら教祖がお若い頃になされたことは、「教祖ひながた」とは言いません。なぜなのでしょう。

「教祖ひながた」と言われるのは、教祖が41歳の時に「月日のやしろ」となられた後から、現身(うつしみ)をおかくしになられるまでのおよそ50年を指します。

これは、「月日のやしろ」となられてから親神様の教えを口に筆にと説かれるようになったのと同様に、親神様のお心のままに御自らの通り方をもって、人間が生きるべき道を示されたからです。

また、「教祖ひながた」について述べられているおさしづにおいても、

口に言われん、筆に書き盡(つく)せん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅(わず)か五十年。

『おさしづ』明治22年11月7日

と、現身をもって「月日のやしろ」としてお通りになられた50年を「ひながた」とはっきりと示されています。

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