月明かり、夜明け
皆さんは「神さま」と聞くと、どのようなイメージを持たれますか?
「おさしづ」には、例えば次のようなお言葉があります。
どこに居ても月日の身の内や。
明治20年7月
ここでは神さまが「月日」として示され、私たちはどこにいてもその内にいると教えられています。
お月さまとお日さま。
なぜ神さまは「月日」と表現されているのでしょうか?
私は、ある人の宮古島での体験談を聞いて「そうか。だから神さまは、月日なんだ」と感じたことがあります。
それは、次のような話でした。
「ある晩、私は宮古島の公園を散歩していました。だんだんと暗くなってきて、足元も見えなくなりました。宮古島って街灯があまりなくて、夜道では完全に真っ暗闇になります。それで怖くなって小さな懐中電灯をつけました。ところが、そのせいで急に周りの闇がグッと濃くなったのです。ものすごい恐怖に襲われて、慌てて懐中電灯を消しました……」
私は話を聞きながら「へぇー」と思いました。
ライトをつけて明るくしたのに、逆に闇が深くなるのですね。
「目の前だけ明るくしちゃったので、そこだけは明るいけど、瞳孔が開いてしまうためか、周りの闇はかえって濃くなったのです。だから、懐中電灯を消したらホッとして。下手に明かりをつけるより闇の中を歩いている方がよっぽど楽だって思いました」
そして、この方は、この経験から次のように思われたそうです。
「人の気持ちでも同じことが言えるかもしれませんね。悩み事なんかがあるとき、下手に目の前の希望にすがると、かえって不安が濃くなってしまうことがあります。そういうときは、思い切ってその希望を手放した方が、前に進めることもあると思います」
私は聞いていて「なるほどなぁ」と思いました。
さて、ポイントはここからです。なぜ神さまは「月日」と表現されるのでしょうか。
月明かりは、目の前だけを照らす懐中電灯とは違って、夜空全体に光を発しており、ぼんやりと闇に重なっているようにも見えます。
つまり、月明かりとは「闇と共にあるような明かり」といえます。
そこで、先ほどの話と重ねてみれば、次のように考えられませんか?
神さまは、懐中電灯のような「分かりやすい光」をくれるのではなく、お月さまのように暗闇の中を暗闇なりに歩けるように照らしてくれている……と。
しんどいときや、つらいときは誰にでもあると思います。
それはまるで暗闇の中を歩いているようなものです。
でも、そんなときは、あえて目の前の「分かりやすい光」を手放して、そのしんどさや苦労に向き合う方がいいのかもしれません。
暗闇でも大丈夫。
ふと見上げれば、神さまが見守ってくれています。
そして、そのようにして月明かりを頼りに暗闇を歩んでいけば、焦らずとも、やがて夜明けが訪れるのではないでしょうか。
明治20年7月
大阪近藤政慶若狭行きの伺
さあ/\尋ねる事情を、どうせともこうせとも、行けとも行くなとも、どうしてやろうこうしてやろうとも、この処、前から言うた事はないで。何事も皆銘々の心次第と言うてある事やで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事、誠の心一つや。誠が天の理や。天の理にさえ叶えば、何処に居ても道が付くで。実誠無けねば、何処い行たとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しいかり聞き分ねば分からん。しいかり聞き分けて諭すがよい。