おぢばで気付いた「ありがたいこと」
「静かな奇跡」は、もっと身近なところにあったのに、私はずっと見逃していました。
派手じゃないけれど、心にそっとあたたかい光をくれる。誰も拍手をしないけれど、誰かの一日を救う。だから「静か」だし、気付かないうちに起こるから、「奇跡」と呼びたくなるのだと思います。
いつの間にか、私の心はその小さなあたたかさに気付けなくなっていました。最近の私は、やるべきことが重なり、心に余裕のない毎日を過ごしていました。
ささいなことで腹が立ったり、不足ばかり口にしてしまったり。そんな自分が嫌なのに、どうしたらいいのか分からず、いつも心の中は曇っていました。
そんなある日、机の上に置いてあった、修養科中に使っていたノートが、ふと目に入りました。何気なくページをめくると、後ろの方に、おぢばでの生活の中で気付いた「ありがたいこと」が書いてありました。それを読みながら、私は思い出しました。
修養科でおぢばにいたとき、学修のスタッフとして、ご用をさせてもらっていた時、どんなに忙しくても、不思議と心が落ち着いていたことを。朝の澄んだ空気。誰かの「おはよう」という声。みんなでするひのきしん。
どれも特別なことではないのに、なぜかあたたかくて、「今日もいい日だな」と自然に思えていました。でも、普段の生活に戻ると、その気持ちは薄れていき、気付けば私は、不満ばかりを数えるようになっていました。
同じ私なのに、同じ世界なのに、見えているものだけが変わってしまっていたのです。

日常の中にある小さなぬくもり
そんな時、母から、ふと「いつもありがとうね」と言われました。
その瞬間、胸の奥がじんわりとあたたかくなりました。その感覚が、おぢばにいたときに感じていた、穏やかな心とよく似ていることに気付いたのです。おぢばでのことは、特別な出来事や大きな体験だけではありません。
ただ違っていたのは、日常の中にある小さなぬくもりに気付く心だったのだと思います。
ドアを押さえてくれる人。落とした物を拾ってくれる人。「大丈夫?」と声を掛けてくれる誰か。私は、いつの間にか、それを「当たり前」だと思っていました。
でも本当は、誰かが私のために、少しだけ立ち止まり、心を向けてくれた、助け合いの大切な時間だったのです。おぢばを離れても、あたたかさが消えたわけではありません。ただ、私の目が、それを見えなくしていただけでした。
それに気付き、感謝できたのも、おぢばでの生活があったからだと思います。母だけでなく、私やあなたのちょっとした一言や行動も、きっと誰かの心を、そっと支えているのだと思います。
今日も、目の前にある静かな奇跡に気付き、私もその静かな奇跡を、そっと置ける一日を過ごしたい。
そんな小さなあたたかさの連鎖こそ、親神様の望む『陽気ぐらし』への一歩だと、私は思っています。

