「Happist」読者の学生の皆さん、こんにちは。
これまでお道の教えの「?」について勉強しましたが、この連載を始めるにあたり、編集部を通してお道の中の疑問を集めてもらいました(再掲載にあたっては募集しておりません)。最終回は、その中から幾つか選んで、私なりにお答えして、この連載を終えたいと思います。
おつとめの回数について、教祖が何か仰られたという記録はないそうですが、これまで先人の先生方がいろいろと悟られていますので、その一つを簡単に紹介したいと思います。
二十一回は七×三という区切りがあり、(かぐらづとめ第三節のお手は、七回を三回勤めます)十全の守護の七つ目の守護「たいしよく天のみこと」の切る理(はたらき)と、三つ目の守護「くにさづちのみこと」のつなぐ理(はたらき)を意味するとの悟りがあります。
つまり、「悪しきこと」を「切って」もらい、生命を「つないで」いただくということです。また、物を作ることをはじめ、多くの物事が「切ること」と「つなぐこと」の二つ一つの働きで成り立っていることを考えると、七と三という数字の意味が分かるように思います。
拝をする時に手を握り親指だけが出ているのを見かけますが、本来はみんなが足で踏む所に手のひらが着かないように手を握るのです。
教会でおつとめをする際、鳴物などの神具を素手で触るので、手を洗ってきれいにして、その後、手を汚さないように握るのです。本来の意味からすると、親指も握って地面に着かないようにするのが正しい握り方だと思います。
確かに「理」とはさまざまな意味を持っていますので、「理」とは「これ」とは言えない場合が多いと思います。実際、私もぼんやりとしか分からないことが多いです。
しかし「理」とは、大きな意味では、条理、ことわり、みちすじ、真理、法則といった、成ってくる道筋ですので、この世界のすべてが親神様のお働きによって成り立っていることを考えると、「理」=「親神様のお働き」と考えて良いと思います。
また、そこから、教理、教えと捉えることもできますし、「理のある人」というように、親神様の思召にかなう誠の心で通ってきた人、魂に徳のある人を「理」という言葉を使って表現したりします。
また、「理を立てる」とか言いますし、「理立て」としてお供えをすることもありますが、「理を立てる」とは、自分の都合や理屈を無しにして、神一条の心、誠真実の心で親神様の思召に沿った道筋に心を合わせることであると思います。また、親神様の守護を願ってことを進める際に、誠真実の心を受け取っていただくためのお供えを「理立て」と言われています。
いずれにしても、「理」という言葉を正確に説明することは難しいので、自分で感じて少しずつその意味をつかんでいくようなものなのかなと思います。