「月日のやしろ」のお立場を考えよう!

私は学生の頃、親神様と「月日のやしろ」である教祖のお立場について教わる中、なかなか理解しきれないことがありました。

それは、教祖のお身体を親神様が借りて「月日のやしろ」となられたのですから、「教祖が現身をおかくしになられてお身体が無くなった後は、残るのは親神様だけじゃないのか?」「教祖の魂は元のやしきにとどまって、変わらないお働きをされると教えられるが、その教祖は親神様が抜けてしまった教祖で、元の中山みき様となって、いざなみのみこと様の魂が教祖殿におられるのかな?」とか、

あまり人に聞けないようなことを考えていました。考え方が理屈っぽい偏屈な私だから、そう考えたと思いますが、皆さんの中にもこうした疑問を持ったことのある人はいるのではないでしょうか。

ところがある時、自分なりに納得できるようになりました。それは、親神様はそれこそ壮大なお働きをされる存在ではあるものの、姿かたちがある訳でもなく、人間とは全く異なる次元にありますので、とうてい人間には身近に感じることも、その親心を知ることも、理解することもできない存在です。

しかし、教祖をやしろとされたことで、初めて人間は親神様の存在を知ることができ、その深い親心も知ることができたのです。

いわば私たちは、教祖を通してしか親神様を知ることができない。教祖の人間を思う、世界一れつたすけたいお心いっぱいの親心を知って、そのお心が親神様のお心なのだと、初めて親神様のお心を知ることができるのだということに気付いたのです。

『天理教教典』に、

人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

『天理教教典』第1章 「おやさま

と記されています。

学生の頃にも、この文章を読んだことはあるのでしょうが、その意味を理解することができていなかったんですね。

ですから教祖は、他の宗教の開祖や教祖のように悟りを開いたのでもなく、霊感があったり、神の霊が乗り移ったり、単に啓示によって神の声を聞いて伝えたのではなく、親神様が直接的に人間の前に現われるための、いわば親神様と人間の仲立ちをされているお立場、それが「月日のやしろ」の教祖だということです。

しかも、それは教祖が現身をおかくしになられて後、そのお姿を見ることも、お声を聞くこともできない今となっても、教祖を通してしか、私たち人間は親神様を知ることができないということです。すなわち、現身をかくされた後も、「月日のやしろ」のままで、私たちを導き育て、たすけてくださっているのです。

※『Happist』2017年7月号掲載

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