「Happist」読者の学生の皆さん、こんにちは。
前回は立教について少し勉強をして、親神様がどれだけの永い時間をかけて、私たち人間を育ててくださったのかを説明してみました。
今回からは、お道を信仰する上での要でもある教祖・中山みき様について少し勉強したいと思います。
お道を信仰する上で、まず「教祖を知ること」が欠かせません。さらには信仰実践の中から「教祖を感じること」が肝心です。しかし、教祖は今から約130年以上も前に現身(うつしみ)をおかくしになられましたので、「教祖に直接お会いしたことがある人」は、当然現在は一人もいません。
それどころか、「教祖にお会いしたことがあるという人に直接会ったことがある人」ですら、もうほとんどいないと思います。ですから、私たちが教祖を知ろうと思えば、文字や話などを通してしか知ることはできません。
『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』の三原典をはじめ、『稿本天理教教祖伝』(こうほんてんりきょうきょうそでん)や『稿本天理教教祖伝逸話篇』(こうほんてんりきょうきょうそでんいつわへん)、そして今は、若い人でも読みやすい漫画の『劇画 教祖物語』もあります(『劇画 教祖物語』は、教祖百年祭までの天理教史をざっと学ぶのにもいいです)。
その他にも、教祖のことを記した書物はたくさんあり、最近は、スマートフォンのアプリでも、『稿本天理教教祖伝逸話篇』や『おふでさき』などをすぐに調べることができて、大変便利になりました。
教祖を知るという営みは、そうした書物を読んだりお話を聞いたりする中で、自分の心の中に教祖を思い描くことから始まると思います。
教祖の面影については、『稿本天理教教祖伝』第八章『親心』に詳しく書かれていますので、教祖を自分の心に思い描いてもらえるように、少し長いですが引用します。
高齢の教祖にお目に掛った人々は皆、譬(たと)えようもない神々しさと、言葉に尽せぬ優しさとが、不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも心の温まる親しさを覚えた。
教祖は、中肉中背で、やや上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色もよく、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常に、にこやかな中にも、神々しく気品のある面差であられた。
お髪は、年を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真白であられたが、いつもきちんと梳(くしけず)って茶筅に結うておられ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた。
眼差は、清々しく爽やかに冴えて、お目に掛った人々は、何人の心の底をも見抜いておられるというのはこのような眼か、と思った。
足腰は、大そう丈夫で、年を召されても、腰は曲らず、歩かれる様子は、いかにも軽ろやかで速かった。
教祖にお目に掛る迄は、あれも尋ね、これも伺おうと思うて心積りしていた人々も、さてお目に掛ってみると、一言も承らないうちに、一切の疑問も不平も皆跡形もなく解け去り、ただ限りない喜びと明るい感激が胸に溢れ、言い尽せぬ安らかさに浸った。
お声は、平生は優しかったが、刻限刻限に親心を伝えられる時には、響き渡るような凛とした威厳のある声で、あれが年寄った方の声か、と思う程であった。
『稿本天理教教祖伝』第八章「親心」P165-167