教祖はお姿をお隠しになられた後も、存命同様でお働きくださっていますが、そのお姿は私たちには見えませんし、お声を聞かせていただくこともできません。また、おつとめやひのきしん、お供えやにをいがけ、おたすけをして教えを実践しても、ちょっとやそっとしたぐらいで、すぐに目に見えて良いことが起こるわけではありません。
逆に、お道のことは何もせずに、勝手気ままに暮らしていても、すぐに悪いことが起こるわけでもありません。ましてや天理教を信仰していない人や天理教に反対し、攻撃してくるような人も、何ら変わらない親神様のご守護をいただいて、日々結構に暮らしています。
そうなると、「本当に親神様は居るのかな? 教祖は居るのかな?」なんて思ってしまいます。
しかし明治の中ごろ、天理教が国から内務省訓令によって弾圧された時に、
反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。
『おさしづ』明治29年4月21日
とのお言葉を下さっています。
親神様から見れば、人間は皆等しくかわいい子どもであり、反対するからといって差別はされません。また、親を慕う子どもはなおのことかわいいと感じてくださいますが、教えを用いなければ、反対同様のものともおっしゃいます。
親神様・教祖は、大きな親心をもって私たちを間違いなく見ていてくださっています。そして、多少の心得違いをしていても、いつも大目に見許してくださっているのです。
親神様・教祖は、大きな親心をもって私たちを間違いなく見ていてくださっています。そして、多少の心得違いをしていても、いつも大目に見許してくださっているのです。
在るといへばある、ないといへばない。ねがふこゝろの誠から、見えるりやくが神の姿やで
『改訂正文遺韻』「逸話集」266頁
とお聞かせくださったそうですが、私たちが教祖の存在を感じるためにも、「願う心の誠」がなくてはいけません。しかもそれは、人のために願う心の誠です。
次回は、教祖のお立場について一緒に考えたいと思います。
※『Happist』2017年6月号掲載