池戸理「おさづけでつないでいただく絆」

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初めてのおさづけ

私は、新潟県にある教会で教会長を務めています。毎月おぢばへ帰る際は滋賀県に住む親の元へ顔を出します。そんな時、父や母の体調が悪いと、おさづけを取り次がせていただくことがあります。

最近も、父親から「おさづけしてくれるか?」と、言われて取り次ぎました。自分の親におさづけをさせていただくのは、言葉では表せない何とも不思議な気持ちになります。

思い返せば、初めておさづけを取り次いだ相手も父親でした。天理高校3年生の時におぢばでおさづけの理を戴いた日、ちょうど父親が用事で天理に滞在していたので報告に行くと、「ちょっと風邪をひいたから、おさづけしてくれるか?」と言われてさせていただくことに。

頼まれたその瞬間から頭が真っ白になり、今まで何度も取り次いでもらってきたおさづけを自分がやるとなると、どう唱えればいいか、どう手を振っていいか分からなくてしどろもどろになり、父親に「あしきはらい・・・」と、リードされました。真冬にもかかわらず、額に汗をかきながら、なんとか初めてのおさづけをさせていただきました。

しばらくして、寮に住んでいた私宛てに父親から手紙が届きました。「お前のおさづけはよく効く」と、書いてありました。あのおさづけの時、本当に父親は風邪を引いてたのか? 息子に初めての取り次ぎを促すために芝居を打ったんじゃなかろうか? と怪しく思いましたが、「お前のはよく効く」と、言葉をくれたことが心に残りました。

取り次ぐ喜び、取り次がれる喜び

その後大学生活を送っていましたが、自ら進んで信仰をするということが分からなくなり、だんだんお道から気持ちが遠ざかっていた時期がありました。しかし、友達が怪我をしたり体調を崩していると、おさづけだけはさせていただいていました。

大学卒業後に勤めた天理高校の寮で日頃から生徒へおさづけを取り次ぐ機会がありました。生徒の中にはやんちゃな子たちもいて、中でも一番手を焼いていた生徒がいましたが、彼が風邪で寝込むと、おかゆを作って部屋へ運び、おさづけをさせていただきました。

神様にお願いしていくに連れ、少しずつ生徒を大切に思う気持ちを育んでいただきました。その彼がようぼくになって初めてのおさづけを私に取り次いでくれたことは忘れられません。

自分が幼い頃から、病気になればいつも両親がおさづけをしてくれました。その度に守っていただいている安心感とたすけていただいた喜びが、当時も、そして今もずっと残っています。

教祖が、「撫でてなりとも、さすってなりとも、たすけてやりたい。」と思召し下さる、その親心を取り次ぐのです。

深谷善和著 『お道の言葉』より抜粋

と、お聞かせいただいたことを、父や母のおさづけからずっと仕込まれていたように思います。

現在、私は、毎日家族や病んでいる人におさづけを取り次ぎます。教会で務めさせていただいていると、おさづけでたすかりをお願いしてきた大切な方とのお別れがたくさんあります。申し訳なく不甲斐ない思いを何度もしていますが、おさづけによって家族や人様と私自身をつないでくださった教祖への感謝は深まるばかりです。

調子が悪い時には妻からおさづけをしてもらいますが、以前は自分から願ってしてもらうことはあまりありませんでした。取り次ぐだけでなく父親がそうしてくれたように、辛い時は、自分から願っておさづけを取り次いでいただくことも忘れずに、たすけ合いの喜びを味わっていきたいと思っています。

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