三一 「天の定規」

ヒカル

先生、こんにちは。かなり秋めいてきましたね。

先生

ヒカル君、こんにちは。涼しくなって、何だかヤル気が出てきますね。

ヒカル

読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋って言いますもんね。

先生

それでは、今回も天理教学生会の「運営委員会がおすすめする逸話篇」から、三一「天の定規」の逸話を学びたいと思います。

今回のポイント
親神様・教祖(おやさま)の思召に沿えているのだろうか?」「教祖ならどうされるだろうか?」という視点を持つことで、知らず知らずのうちに使ってしまう「ほこりの心づかい」に気が付いたり、ひいては争いや差別を無くしていくことにつながる。

三一 天の定規

教祖は、ある日飯降伊蔵に、

「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」

と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、

「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」

と、仰せられ、更に続いて、

「隙がありませんか。」

と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、

「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」

と、お教え下された。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』 49ページ
ヒカル

先生、飯降伊蔵(いぶりいぞう)さんは、腕の良い大工さんだったんですよね?

先生

そうです。その伊蔵様が「真っ直ぐな柱を」と教祖からご所望されたわけですから、さぞ、気合を入れて臨まれたことと思います。

ヒカル

その柱をご覧になって、教祖は「隙はありませんか」と仰ったんですね。
ところで、教祖の仰る「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事」というのは、具体的にどういうことですか?

先生

そのまま受け取ってもいいと思いますが、私は、人間社会の常識や正義、道理や法律というようなものを仰っているのではないかと思います。
常識や正義、道理や法律というものは「間違いのないもの」のように思いがちですが、必ずそこに所属している人々の考え方や都合が元となっていますから、どうしても多少の偏りが生じてしまうものなのです。
国や地域が変わると、法律や社会常識が変わってくるのが、その証拠だと思います。

ヒカル

なるほど。
そういえばそうですね。

先生

また、正義感や常識に至っては、個人個人によってさえ、違いが生じてしまう場合があります。
人がどれだけ「普通はこうだろう。こうあるべきだ」と訴えても、相手にとっては、それがあてはまらないことだってよくありますよね。
これでは、いつまで経っても争いや差別は無くならないですよね。
そこで、教祖は「天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と仰せられるのです。

ヒカル

その「天の定規」っていうのは、お道の教えということですか?

先生

そうですね。その理解でいいと思いますが、私は少し言い換えて「親神様・教祖の思い」だと思うんです。
人間は、どんな人も必ず隔て心を持ってしまうものだと思いますが、親神様・教祖だけはすべての人間の「をや」ですから、その親心に分け隔てはありません。
世界中の子どもたち(人間)が互いに立て合い、たすけ合って「陽気ぐらし」をする姿を見たいと望む上から「ああしてほしい。こうなってもらいたい」という切なる親心が、み教えに込められていると思うんです。

ヒカル

だから、いつも「親神様・教祖の思召に沿えているのだろうか?」「教祖ならどうされるだろうか?」という視点を持つことで、知らず知らずのうちに使ってしまう「ほこりの心づかい」に気が付けるし、争いや差別を無くしていくこともできるんですね。

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