先生、ハルカちゃん、こんにちは。
こんにちは。今日もよろしくお願いします!
ヒカルくん、ハルカちゃん、こんにちは。
今日は、二九「三つの宝」の逸話に学ばせてもらいましょう。
今回のポイント
朝起き:親神様・教祖(おやさま)・祖霊様へのご挨拶から一日を始めること。
正直:裏表のない心で通ること。神様の思召や戒めを素直に守って通ること。
働き:人が見ていても見ていなくても、周りの人たちに喜んでもらえるように働くこと。
二九 三つの宝
ある時、教祖は、飯降伊蔵(いぶりいぞう)に向かって、「伊蔵さん、掌(て)を拡(ひろ)げてごらん。」
と、仰せられた。
伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾(もみ)を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」
と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、
「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」
と、仰せられた。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』47ページ
伊蔵は、生涯この教(おしえ)を守って通ったのである。
先生、「朝起き・正直・働き」って「少年会の歌」の歌詞に出てくる「三つの教え」ですよね?
「あ~さ~おき~、しょうじ~き~、は~た~らきの~」っていうやつだよね?
そうです。お道のすべての信仰者にとって、最も基本的な信仰実践だから、この三つの教えを身に付けてくれるよう「少年会の歌」にも取り入れられているのだと思います。
それほど大事な教えなんですね。
でも、「朝起き」って具体的にどうしたらいいんですか?
それが、はっきりしたことは分からないんです。
しかし、お言葉を頂かれた飯降伊蔵先生ご本人の通られ方を見れば、何か分かるかもしれません。
なるほど、「伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。」とありますもんね。
飯降伊蔵先生にお仕えされた先人の述懐(じゅっかい)が記された本を引用しますと、
ほの/\と東の青垣の山の端が白みそめる。ざく/\とゆきかう下駄の音が、ひつきりなしにおやしきを中心に響こう。本席邸はしんとして、時折ひそやかに青年が、朝の支度に右往左往する氣配があるだけ。
突然寄せ太鼓が鳴ると間もなく、上半身を床の上に起こされる。(中略)
洗面は至極簡単に終る。井戸やかたの北側の庭へ出て、おやしきへむいて立つたまゝ、親神様、教祖様、祖霊様に黙祷されること約十分、始めと終りとに拍手されるだけである。その間におりんさんは、お居間でお召し替えの用意。御拜が終ると、庭づたいにお居間へ帰られる。
橋本正治(1951)『本席の人間像』88ページ 養徳社
と記されています。
ちょっと文章が難しくて、はっきりとは分かりませんが、飯降伊蔵先生は夜が明ける頃に目を覚まされて、庭で洗面を済まし、そのままお屋敷の方向に向かって、立ったまま親神様・教祖・祖霊様を礼拝されたってことですかね?
そういうことですね。ここでまず大事なポイントは「時刻」です。
夜が明ける頃、つまり日の出の時刻が「朝」ということです。
今でも教会本部の朝づとめは日の出の時刻に合わせて勤められていますが、昔は時計が普及していなかったので、朝と言えば日の出の時刻を言うのが普通だっただろうと思います。
そういえば、当時は今みたいに目覚まし時計がなかったんですね!
どうやって起きてたんだろう?
ほんとですね。次に大事なポイントは、起床されて洗面を済まされたら、すぐに親神様・教祖・祖霊様を礼拝されているという点です。
一日の日課の最初が、親神様・教祖・祖霊様への礼拝だったってことですね。
そうです。親神様・教祖・祖霊様へのご挨拶から一日を始められていたということが分かります。
そこから考えると、教祖がお教えくださった「朝起き」の意味が少し分かるような気がしませんか?
なるほど。「朝起き」については、なんとなく分かりました。
では、「正直」っていうのは、どんなことですか?
逸話篇の一一一「朝、起こされるのと」では
陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』192ページ
と仰っています。
陰でさぼったり、人の陰口を言うようでは正直ではありません。
つまり、「裏表のない心で通れ」ということではないでしょうか。
また、神様の思召や戒めを聞いて知っていながら、知らん顔して通っているのは正直ではないと仰っているのではないでしょうか。
なるほど。神様は表も裏も見抜き見通しですもんね。
そして、「働き」は逸話篇の一九七「働く手は」で
働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、 側楽・ハタラク)と言うのや。
同 320ページ
とお聞かせくだされています。
「はたはたの者」っていうのは、自分の周りの人たちってことですよね?
飯降伊蔵先生は、みんなが寝ている夜中の内に、壊れた橋をこっそり修理されたりしていたって聞いたことがあります。
そっか。人が見ていても見ていなくても、周りの人たちに喜んでもらえるように働くのが、教祖の仰る「働き」なんですね。