「ひながたの親」のお立場について考えよう!

では、「ひながたの道」をたどるとはどういうことなのでしょう。このことについては、お道の中では常に言われることで、教祖年祭活動の時には、特に強調されます。しかし、成人の鈍い私には、はっきりと「これだ!」という答えは見つかりません。

家や持ち物を貧しい人に施し、貧のどん底に落ちることや、長期に及ぶ断食をすること。熱心にお道を通るあまり警察に捕まって投獄されることなど、それもひながたの道をたどることになると考える人もいます。

しかし、それらが、親神様が望まれる「ひながたの道」なのかは分かりませんし、人の考えはさまざまです。

ただ、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話篇』などに記される教祖の言動を頼りに、自分の生き方を求めて実践し、どんな境遇にあっても神一条に勇んで通ることであることは確かです。

そして、「ひながたの道」について考えるには、次のおさしづが欠かせません。

難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。(中略)ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何處(どこ)から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。(中略)まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道が無いで。(中略)世界には何を言うやら大工がと。日本一の大工や。何言うて居るやらと皆笑うて居た。(中略)まあ三日の辛抱さえ仕遂げたら、誰に遠慮は無い。皆貴方々々と言う。ひながたの道が出してある。ひながたそばにある。(中略)三日の日は越せんという理はあるまい。どんな者でも、ひながた通りの道を通りた事なら、皆ひながた同樣の理に運ぶ。

『おさしづ』明治22年11月7日

と、「教祖ひながたの道」は、人間が通る手本としてお通りくだされた道であること。

「何處から見ても成程やというようにしたならば、それでよい」と、おさづけを拝戴した時に頂く「おかきさげ」でも述べられる「成程の人」として通ること。

また、「ひながたそばにある」と本席・飯降伊蔵様を指して、ひながたをたどるヒントにすること。

さらには、「教祖ひながた」をたどる期間を三年千日と示され、「どんな者でも、ひながた通りの道を通りた事なら、皆ひながた同樣の理に運ぶ」と、教祖が50年かけて通られた「ひながたの道」も人間ならば3年間をひながた通りに通れば、ひながた同様の理に運ぶと仰せられていることが分かります。

私利私欲を無くして、低い心で、親の心になって誰彼関係なく分け隔てのない心で、常に人だすけに励み努め続けることは、たとえ3年という期間であってもなかなか常人が通れるものではありません。しかし、道の信仰者なら、及ばぬながらも、この「教祖ひながた」を求めて生きたいものです。

※『Happist』2017年8月号掲載

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