「教祖存命の理」について考えよう!

「Happist」読者の学生の皆さん、こんにちは。

前回は、教祖の三つのお立場の二つ目、「ひながたの親」について勉強しました。今回は、三つ目の「存命の理」について考えたいと思います。

「教祖存命の理」について考えるためには、まず、教祖が現身(うつしみ)をおかくしになられたところから学ぶ必要があります。教祖が現身をおかくしになられた、明治20(1887)年陰暦正月26日の前夜、教祖のご身上(みじょう)がよろしくないので、飯降伊蔵先生を通して神意を伺うと、

さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

『おさしづ』明治20年2月17日

とのお言葉がありました。

「ろくじ」とは平らにするとの意味で、「ろくぢに踏み均す」とは、人間の高低がなく、一れつきょうだいがたすけ合って暮らす陽気ぐらしの世界にすることです。それを「扉を開いて」するのか「扉を閉まりて」するのか、どちらがいいかを尋ねられました。それに対して人々は、

「扉を開いてろくぢに均らし下されたい。」(『稿本天理教教祖伝』第十章「扉ひらいて」325頁)と答えました。

この時は「扉」の意味も、「開く」「閉じる」の意味も分からず、閉じるより開く方がいいだろうということで、そう答えたそうです。すると、

成る立てやい、どういう立てやい。いずれ/\/\引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でも彼でも引き寄せる中、一列に扉を開く/\/\/\。ころりと變(か)わるで。

『おさしづ』同日

とのお言葉がありました。

翌日、おつとめが勤められ、おつとめが終わるとともに教祖が現身をおかくしになられました。人々が驚き悲しみ、悲嘆に暮れる中、飯降伊蔵先生を通して神意を伺うと、

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、實(じつ)の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

『おさしづ』明治20年2月18日

との、お言葉がありました。

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