心に響かなかった言葉
お道を通る中でよく耳にする「喜んで通ろう!」「何でも喜ばせてもらおう!」という言葉。
天理教校学園のあらき寮でご用をさせていただいている私も生徒に対して、つい使ってしまいます。私自身も学生の頃は、この言葉に説得力を感じることができず、心に真っすぐ入ってくることはなかったように思います。
けがや病気をしたり、けんかをしたり、恋人にフラれたり、たくさんの身上・事情をどう喜ぶんだ! と思っていました。
そんなときに、かしもの・かりものの理について学ぶ機会がありました。『おさしづ』に
人間というものは、身はかりもの
明治22年2月14日
思うようにならん/\というは、かりものの証拠
明治21年7月28日
とあります。朝に目が覚め、食事をして、それに伴う排せつ、何かを目で見たり、耳で聞いたり、においを嗅げたり、眠れたり、その間に心臓が動き、肺が呼吸をしてくれる。その他にもたくさんの親神様のご守護により、私たちは生かされていることが分かります。
生かされているからこそ、絶えず日々の身上・事情が起こってきます。それなのに私たち人間は、表面的なことばかりに目が向き、喜べないことがあるように思います。
寮幹事を務める中で
私も寮幹事をしている中で、喜べないことがたくさんありました。ある生徒がおつとめをちゃんとしてくれない、おさづけを取り次ごうにも断られてしまう。注意や声掛けをしても手応えがなく悩んでいました。
そんな時、かしもの・かりものの理を思い出して考えてみると、相手ばかりに求めて、自分勝手な注意をして、相手を大切にしていなかったと反省することができました。
それから生徒を色んな方向から見るようになり、日常生活が何不自由なく、元気に生かされている、過ごせているという基本に喜びを感じることができました。
そんなある日、寮でのおつとめの際、その生徒が唱和しながら、お手を振っていました。
おさづけも文句一つなく、取り次がせてくれ、本当の親のように喜んだことを忘れません。神様が生徒を通じて大切なことに気付かせてくださいました。
どんな出来事もプラスに
かしもの・かりものの理については、たくさんの先生方がお話や本の中で「教えの台」「これさえ心に治まれば、理解できれば、自由自在にご守護してくださる」と言ってくださっています。
どんなにマイナスに思える身上・事情が起きても、基本に戻ってみれば、プラスに、喜びに変えられると思います。
現在の新型コロナウイルスに限らず、皆さんもこの基本を心に治め、さまざまな身上・事情に重ねて、喜びあふれる日々にしてください。