上村知孝「『たい』」

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「たいを食べてるか?」

私は幼少の頃より、当時の上級教会である敷島大教会前会長、山田忠一先生から「たいを食べろ」「たいを食べてるか?」と、お会いするたびに声をお掛けいただき、育てていただきました。

その『たい』と言うのは、魚の鯛ではなく『ありがたい』のたいで、そのたいをたくさん食べれば食べるほど、信仰者として素晴らしい人になれるぞとお教えいただきました。

また、「ありがたいは漢字で書けば『有難い』。人生には色々な壁、難が必ずある。難が有るから有難いんだ。この信仰は有難いから始まる。親神様のご守護、教祖のお導きを有難い心で通らせてもらおう」と言っていただいたことが私には印象に残り、今も心において日々の実践できるように努めております。

この世界、人間はすべて、陽気ぐらしをするために親神様によって創られました。また、私たちは親神様から体をお借りして毎日大きなご守護に包まれて生かされています。その中で唯一、自分のものとして自由に使えるものが心です。

今あるものに目を向けて

陽気ぐらしをする心遣いの基本の一つは、日々を喜ぶことだと思います。しかし、つまらない日もあれば、イライラする日もたくさんあります。悲しいことだって起きてきます。ただ、ある人のことを思うと、そんなことを言ってられないなと思います。それは教祖です。私は、この世界中で一番の喜びの達人は教祖だと思っています。

教祖は、金銭や家にあるものすべてを貧しい人に施し、貧のどん底を歩まれ、村人や親戚からは見放されてしまいます。ついには娘が「もう、お米はありません」と教祖に言うと、教祖は

世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。

『稿本天理教教祖伝』 第三章 「みちすがら」40ページ

と諭されました。

自分にはあれがない、これもないと嘆くよりも、今あるものに目を向ければ、次々と喜べることに気付きます。親神様のご守護はいくらでも身近にあふれていると、教祖は身をもって教えられました。そんな教祖のひながたを今日も思い出して『ありがたい』づくめの一日を感謝の心で通らせていただきタイと思います。

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