仁上 旬一「人生の伏線を回収しようぜ」

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伏線のような出来事

YouTubeなどの動画サイトやSNS動画で、漫画やドラマのストーリーを深掘りし考察する、いわゆる「考察系動画」。流れてくるとついつい見てしまうのは私だけじゃないはず。

その中でよく使われるのが「伏線回収」という言葉である。作者が意図的にストーリーの中にさりげなく散りばめたセリフや出来事が、後半になって問題解決のヒントになっていたり、驚きの展開を見せたりする。あらかじめ張られていた伏線との辻褄が合うとき、「だからこの時こうだったのか!」「マジかよ!」と、ページをめくるごとに見えてくるストーリーの奥深さに、私みたいな読者はまんまと作者の術中にハマっていく。

そういう動画にワクワクしながらも、時々考えるのは、こうして生きる私たちの人生に置き換えても、同じようなものなのかなあとぼんやりと物思いにふけるのである。

みなさんそれぞれの人生においても、もしかしたら伏線のような出来事はなかっただろうか。
本当にしんどくて心が折れそうだったけど、あの人の言葉で勇気をもらい乗り越えられた。あの時、学生会に誘ってくれたあの子の一声があったから今の私がいる。

お道を信仰させていただく上で考えれば、人生のその時々に、親神様から散りばめられたさまざまな伏線やメッセージを、私たちは大切に受け取ったり、あっさりと見逃したりしながら、その一つひとつの選択の点と点が線を結び、今の自分をつくっているのだと思う。

若ければ若いなりに、年を取れば取った分だけ、その選択肢の幅は違うかもしれない。けれど、確かにあの言葉が、あの出来事が、何もできなかったあの情けない日々があったからこそ、きっと今の自分がいて、自分の人生というストーリーを形づくっている。

節から芽が出る

天理教の教えに、「節から芽が出る」という言葉がある。
節とは木が成長する途中にできる節目であり、一見すると成長を妨げているようにも見える。しかし、その節があるからこそ新しい芽が出る。人生においても同じで、苦しい出来事や思い通りにならない日々は、その時には意味が分からなくても、後になって振り返れば、次の成長へ向かうための伏線だったと気付かされることがある。

この道の信仰を通して感じることは、親神様の教えや教祖のひながたを学ばせていただきながら、たとえ心が倒れそうになっても、喜びに変えていける力を与えていただいているのだということ。

さまざまな出来事に一喜一憂して、感情を乱高下させながら、「さて、ここからどうなる?」と自問自答して、私たちは今日も一日を積み重ねている。
今は必死で通るしかない日々の中であっても、いつか振り返ったときに「ああ、あれがあったから」と思えるときが来るのかもしれない。そうやって、ちゃんと自分の手で人生の「伏線回収」ができるように、そんな期待を胸に、親神様のお働きを信じて、自分の人生という物語を歩んでいきたいと思う。

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