「かしもの・かりもの」について考えよう! 3

「Happist」読者の学生の皆さん、こんにちは。

今回も、前回に引き続き「かしもの・かりもの」について勉強したいと思いますが、「かしもの・かりもの」の教えを学ぶ上で、皆さんに少し気を付けてもらいたいことがあります。

近年、天理教の中で、「自分の身体と同様に、身の回りの人や物もすべて親神様からのかりものである」というような説明をされる人が増えたように感じます。

そのように考える人は昔からいて、一つの考え方、個人的な悟りとしている分には問題ないと思うのですが、これを「かしもの・かりもの」の教理だと認識し、正しい教理理解として説明されるとなると、私は少し問題を感じます。

それは、本来の「かしもの・かりもの」の教えを分からなくさせてしまい、混乱させてしまう恐れがあると思うからです。

この「かしもの・かりもの」の教えを混乱させてしまう元となるのは、この世に「自分の物なんて存在しない」という事実において、「自分の物ではない」=「かりもの」と考えてしまったことに端を発しているように思います。

私たちは親神様よりこの身体一つをお借りして、この世に生まれ出た時から、今生の人生が始まっています。

しかも何も持たずに、裸で生まれてきていますので、もともと自分の物などは何も持たずに、この身一つだけで、この世に生まれ出ています。

ですから、私たちが親神様からお借りしているのはこの身体一つだけなのです。
自分以外の人も、それぞれ一人に付き一体の身体をお借りして、この世に存在しています。

しかし、人間はあざない(浅はかで幼稚な)ものなので、自由に使える自分の身体を自分の物と考えてしまうのは仕方ないとしても、身の回りの物や人さえも自分の物と考えて、自分の思い通りにさせたがり、思い通りにならないと不足をしたり、嘆いたりしてしまいます。

そこで、自分の身体さえ自分のものでないのだから、その他のものも「自分のものではなく、思い通りにならないもの」ということを理解させるために「借り物」という表現をしてしまっているのだと思います。

しかし、それぞれの人間が親神様からお借りしているのは自分の身体だけで、他のものは、そもそも自分のものではありませんし、お借りもしていません。

また、身体と同様の「かりもの」と捉えている時点で、自分の所有物のように考えてしまっていると言えるかもしれません。

さて、「かしもの・かりもの」の教えを心に治めることは、この世の成り立ちを識り、天の理を識り、親神様の親心を感じることでもあると思います。

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