そんな自分を忘れて

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そんな自分を忘れて

皆さんは、本部で回廊拭きのひのきしんをしたことはありますか?

四つんばいになって、廊下を雑巾で拭きながら進んでいきます。

せっせと廊下を拭いていくと、次第にじんわりと汗ばんできます。

角を曲がるところで、少し休憩。

そのときの風がなんとも心地よく、肩の力が抜けて、頬も緩みます。

「さぁ、もうちょっとがんばろう」

さらに、せっせと廊下を拭いていくと、やがて教祖殿に着きます。

おやさま(教祖)にご挨拶。

「おやさま、ありがとうございます」

思えば、そうした感謝の気持ちが湧いてくること自体、不思議なことかもしれません。

さっきまでいろいろと不安で、意固地だった自分。

ひのきしんをすると、そんな自分も忘れて、心がスッキリしています。

明治23年6月29日の「おさしづ」に、次のような意味のお言葉があります。

一粒万倍の理を聞き分け。みんな種より生えて来る。天の理にもたれてするなら、怖わき危なきはない。

一粒の種をまけば、それが育って実を結び、たくさんの種を落とします。

それらの種がまかれると、さらに多くの種を落とします。

このようにして世代を重ねながら、一粒の種がやがては万単位の種へと増えていきます。

これは、自然の摂理としての神様のお働きであり、「一粒万倍の理」と呼ばれます。

今回の「おさしづ」では、私たちの信仰の道においても、そうした神様の理にもたれて歩めば何も怖くも危なくもないと教えられています。

この道は、一粒万倍のごとく、おやさまお一人からだんだんと広がってきました。おやさまが歩まれた道は、天の理にそった道とも言えるでしょう。

本部の廊下を歩いていると、回廊拭きをされている方をよく見かけます。

また、トイレ掃除をされていたり、境内地で草引きをされている方もおられます。

それから、教会でもさまざまな形でひのきしんをされている方が大勢おられます。

そうした人たちの姿があったからこそ、私が「自分も何かさせてもらおう」と思ったとき、ひのきしんが具体的なものとして思い浮かんだのかもしれません。

ひのきしんの実践は、一粒万倍のごとく、おやさまが身をもって通られた時代からさまざまな人の姿を通して伝わり、広がってきました。

さぁ、私たちも神様にもたれて、何からでもひのきしんをさせていただきましょう。

その一粒のひのきしんの実践が周りに映っていき、やがて万倍の喜びへと広がっていくのだと思います。

明治23年6月29日

普請成就し且本席御障りに付願

さあ/\すっきり/\と皆洗い替えて置け。心通り何かの処、一つ/\聞いて置け。今一時の処、世界から大変である。日々の道理それからそれへ、大和の国には大変の事が出来たそうな。どっから何処まで響き渡したる処、皆何でも無いように思うて居る。今の一時掛かり、一つ大変は大変だけの理はくどう/\さしづをし、くどう/\流す理を聞き分けてくれねばならん。元々の処、どう成ろうかこう成ろうか知らんと、思うて通って来た処を思えば大きなものや。どれだけの理に成ったか分からん。ほんの掛かり、こっからこれまで四面の理を治めてある。道理を言えば隅から隅へ、斜かいに三分通りのようなものや。そんなら後七分は独り成って来る。世上の働きは何ぼの働きとも知れん。これからどんな事もして見せる。日々の働きして居る。道を開いて一人の理も治めてやったら、一軒なりと救けてやったら、一村なりと救けてやったら、世上世界にはそっからそこへ、枝から枝へ、枝が何ぼ咲くや知れん。遠くの所の話遠くの者、何かの事を聞き分け。何とも無しに、結構に成ったら行こうかというようでは、盛んに成るか、大き成るか。この理を聞き分けてくれば、一切の理は皆分かる。あちらへ手を引きて連れて行くのも同じ事、一箇年一箇年指を繰って皆年限の理があるから、よう/\の事治まった。あっちから木を持って来る。どっから植えに来た。早速に植えたら、景色の良いものやと言うも、元々の理があるからの事、一時に出来たものは無い。皆々互いの理を治め、枝から枝とだん/\の理で出来て来る。結構に成れば行こうかというようでは、どっから出来て来るか。もう尽し果した者もある。にっちも動かれん者がある。可哀いそうで/\ならん。尽し果てた者があるから今日の日という。内に物が有っては邪魔になる。皆人に救けて了え。一粒万倍の理を聞き分け。皆種より生えて来る。天の理に凭れてするなら、怖わき危なきは無い。今一時一つだん/\あっちも仮家、こっちも仮家、よう/\あら/\の処、出来成った処、もうこれで一つ、これからという不思議、一時普請と言えば一日の普請でも尋ねて、これでよしやと言えば後々一つでも事情が残らんよう。これからの始めというは、どっから始めるとも分からん。なれど何時始めるや知れん。中途に鈍な事をした、下手な事をしたという。最初に尋ねてさしづを以てさえすれば、下手は無きものや。尋ねてもさしづを耳に聞いてすれば、人に何とも思う事は要らん。神の道、神一条の理に基いてやらねばさしづしたとは言わん。さしづを聞いてどういう心に関という垣を拵えてはどうもならん。そこで大工々々という。大工一つの事情、道具にも譬え、人夫にも諭したる。大工一きの話という、又人夫ともいう、雇入れともいう、伏せ込み大工という。伏せ込んだ大工は一人だけの事。これよう聞き分け。万事の止めに出てある。又よろづの止めに出してある。それに尋ねてするのは、これまでの通りに納したるものを、とん/\とつくような、腹が減っては飯喰べようと言えば、さあ喰べようかと言うようなものや。これまでの理はすっきり受け取ったで。人間の心の理はどうもならん。後々の理は可哀いそうやよって、くれ/\も諭して置く。これから仮家を始めるで。仮家より本普請続きになる、そんな小さいものやない。

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