「Happist」読者の学生の皆さん、こんにちは。
前回まで3回にわたって、天理教でしか説いていない「かしもの・かりもの」の教えについて勉強しました。今回は、「かしもの・かりもの」の教えに必ず付いてくる「心の自由」の教えについて考えたいと思います。
前回お話ししたように、私たちが使わせていただいている身体は、親神様からのかりものということは、何となく理解できると思います。病気や、けがをすれば、身体は自分の思うようには使えず、自分の内臓を自分で動かしている人もいません。
そして何より、いつかはみんな出直して、借りた身体をお返ししないといけないので、自分の身体は親神様のお働きによって使わせていただいているということも理解できると思います。
では次に、「心一つが我がの理」と教えられる「心の自由」について考えたいと思います。
「心一つが我がの理」とは、逆に考えると自分の身体をはじめ、家族や周りの人々、自分が置かれている境遇、毎日の天気や日々出遭う出来事、起こってくる物事など、自分の心以外は思い通りにいかないということです。
これも当然と言えば当然なので理解できると思いますが、人間はわがままな生き物ですから、自分の周りの物事や人々の心まで、自分の思うようにしたいと思います。そして、思うようにならないと嘆き、人を責めてしまうのです。
当然、全てが自分の思うようにいくわけはありません。それは、この世の全ては親神様の領域で、親神様のご守護によって成り立っている、いわば「天の理」に支配されているからです。
しかし、中でも人間の心だけは例外で、親神様の自由になりません。それは、人間に「心の自由」を与えてくださっているからなのです。
親神様もあえてそうされたのでしょう。もし、人間の心まで親神様が思い通りにコントロールできたなら、すぐにでも陽気ぐらしの世界はやって来るでしょう。
しかし、それではロボットのようなもので、ロボットが陽気ぐらししているのをご覧になっても、ちっとも面白くありません。やはり、人間が自分であれこれ考えて、自分の意思で互いにたすけ合って、陽気に暮らす様子をご覧になりたいと思召されているのでしょう。そして、
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。
『おさしづ』明治22年2月14日
と、おさしづにあるように、人間は自分の心の使い方によって、日々起こってくること、成ってくることが変わってくると教えられるのです。