私も子どもの頃からこの教えを聞かせてもらい、何となく納得していましたが、だんだん大人に近づくにつれ、「本当に自分の心って自由に使えるのかな?」と疑問に思うようになりました。
「頭で考えることに心がついてこない」「しないといけないと思っているのにできない」「してはいけないと思っているのにしてしまう」こんなことがよくあります。
私も周りの人々も同じで、「自分の心を自由に使えている人なんているのかな?」「いや、きっとほとんどいないぞ」ということが分かってきました。それに、そもそも自由に使えるはずの自分の心で、苦しんでいる人がいかに多いかということも分かってきました。
そうなると、「心の自由」の教えって、どういうことなのか考えるようになりました。それで何人かのお道の先生に、「人間は自分の心を本当に自由に使えるのか」と「心の自由」について質問したのですが、なかなか納得のいく答えが出てきませんでした。
結局、分からないのかなと思っていた頃、たまたま祖父と夕食を食べていた時に思い出し、祖父にも尋ねてみました。すると祖父は明快に答えてくれました。
「人間は元々『心の自由』を与えられているが、心にほこりを積んで払わないでいると、しまいにはほこりがこびり付き、ついには悪いんねんとなって魂にまでこびり付いてしまう。そうなると、ほこりやいんねん、自分の癖性分に縛られ、本来、自由に使えるはずの心が自由に使えなくなる」ということでした。そして、「心のほこりを払い、いんねんを切っていけば、心は自由に使えるようになる」と教えてくれました。
これは、「何を見てもありがたい」「何を聞いても喜べる」「何を言われても腹が立たない」といった、親神様の思召にかなった、ほこりを払いきり澄みきった心の人が、心を自由に使えるということなのでしょう。
そうすると、「心の自由」とは、教えを実行する中で自ら手に入れるものといえます。また、先ほどのおさしづの続きに、
どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。常々誠の心治めば、内々睦まじいという理を出ける。
『おさしづ』明治22年2月14日
と教えられます。
おさしづは独特な口調なので、ちゃんと理解するのは難しいのですが、「たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。」という箇所の、「受け取る」というのが、普通は親神様が受け取ると思われます。
しかし、この「受け取る」の主語を人間の方に持ってくると、「人間は、日々の心の使い方によって出てくる物事を『成ってくるのが天の理』と素直にたんのうして受け取ることができる。すなわち、自由自在に受け取ることができることを理解しなさい。そのように常々親神様の思召にかなった誠の心が治まり、思召に沿った物事の受け取り方ができたなら、家庭内をはじめ、周りの人々との仲も睦まじくなってくるのである」との解釈ができると思います。
ですから「心一つが我がの理」の教えは、「かしもの・かりもの」の教えとともに、陽気ぐらしをするために心に治めなくてはいけない大切な教えなのです。
※『Happist』2017年11月号掲載