鈴木 さち「心の向きが変わった先は」

もくじ

不足からの転換

昔、住み込み女子青年をさせていただいていたことがありました。当時、教会には教会家族の方以外に、Aさんという方が住み込まれていました。

私は細かいところまで目につく方で、Aさんと毎日過ごすうちに、ささいな行動が気になり始め、不足に思うようになりました。教会がまるで自分の家であるかのように私物を置きっぱなしにしてどこかへ行かれたり、ゴミも置きっぱなしになっていたりという、本当にささいなことです。

ですが、一つ気になり始めると、いろいろなことが気になるようになり、不足の心は積もっていき、Aさんといることが次第にしんどくなっていきました。
しんどくなった私は、父にほとんど愚痴のような電話をしました。

すると父は
「ささいなことに目がいくな。それは高慢や。AさんにはAさんの事情があって、頑張ってはるんや」と私を叱りました。

叱られると思っていなかったので、少なからずショックを受けましたが、続けて「ささいなことに気付くというのは、親神様から頂いている徳分や。気が付かない人だってたくさんいる。せっかく頂いている徳分なのに、不足をしていたらもったいない。親神様に喜んでいただけるように使わせてもらいなさい」と言ってくれました。

その言葉がすっと心に治まり、それからは気持ちのしんどさもなくなり、Aさんに対しての不足もほとんどなくなりました。

見えない1度の先に

 話は変わりますが、稿本天理教教祖伝逸話篇39「もっと結構」のお話に、

ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっとのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、たいそう喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結構でございました。」と教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

稿本天理教教祖伝逸話篇39「もっと結構」

と書かれてあります。

このお逸話を初めて読んだのは高校生の時でしたが「泥棒に対して“結構や”って思えるのかな?」と衝撃を受けたことは、今でも覚えています。

ですが、逸話篇など神様のお言葉に耳を傾ける中で、今感じることは、教祖は物事の良し悪しを話されているのではなく、自身の心の使い方と親神様のご守護を教えてくださっており、親神様が見ておられるのは“心”であるということを教えてくださっているように思います。

Aさんに対して不足していた自分と、父の話を聞いて不足しなくなった自分とでは、何が変わったのでしょうか。それは「心の向き」が変わったのだと思います。分度器で言うなら「0度」から「1度」へと角度が変わったのです。

この「心の向きが変わる(心に治まる)」ということが、本当に有り難いことだと思うのです。今、自分が立っている場所から1度角度が変わったところで、目に映る世界は何も変わりません。ですが、0度の道を歩むのと、1度の角度のついた道を歩むのとでは、この先20年、30年と経ったとき、見える世界は、きっと驚くほどの差が生まれているのではないでしょうか。

心の向きの角度が、陽気ぐらしの方向へと向いた未来では、物を盗まれても「ほしい人にもらってもらえて、結構でございました」と言える日が来るのかもしれません。教祖のお心に映っていた世界はどんな世界だったのでしょうか。そんな今の私には見ることのできない世界を楽しみに、これからもお道を通っていきたいと思います。

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