おさづけと私
皆さんの中には、おさづけの理を拝戴された方も、たくさんおられるでしょう。
私がおさづけの理を頂戴したのは、ちょうど新型コロナウイルスが流行し始めた頃。自分のおさづけで、たくさんの人をおたすけさせていただきたいと思っていましたが、いざようぼくになってからというもの、数ヶ月たっても取り次がせていただけたのは片手で数えられるほどのみ。コロナウイルスの流行を言い訳にしているようですが、実際は人に声を掛ける勇気がなかったことが大きな原因でした。
当時大学生だった私は、知人に誘われ、学生会活動に参加するようになりました。活動を続けるうちに、教えを学び実践することが増え、人をたすけるためにできることは何かと考える時間が増えました。
せっかくのようぼくなのだから、おさづけを取り次がせていただきたい、という思いが強くなり、共に学生会活動をしている仲間に取り次がせていただくようになりました。しかし有り難いことに、周りの人も常に体に不調がある訳ではありません。おさづけを取り次ぐ頻度は徐々に減っていきました。
そんな中、教祖140年祭へと向かう三年千日が始まり、数ヶ月が経った頃、身近な人に身上の障りを見せていただきました。私はたすかってほしい一心で、毎日のようにおさづけを取り次がせていただきました。しかし、なかなか回復には至らず、自分のおさづけでは人をたすけることができないと、マイナスに捉えてしまうようになりました。
それでも毎日おさづけを続ける中で、ふと心に浮かんだこと。それは「親神様が、この三年千日で私にようぼくとしてのつとめを果たしてもらおうと、身近な人に長期間に渡る身上の障りをお見せくださっているのかもしれない」ということでした。毎日、人のたすかりを真剣に願い、少しでも成人できるようにお導きいただいているのだと感じました。

宝の持ち腐れ
おさづけの理を拝戴する前、ある先生からこんな話を聞きました。「おさづけの理を拝戴したのに、おさづけを取り次がないのは宝の持ち腐れ。指のささくれのような小さな怪我でも、どんどんおさづけを取り次いだらいいよ」
ようぼくという肩書きだけ持っているのではもったいない。おさづけは取り次げば取り次ぐほど磨かれていき、例え、すぐに願い通りのご守護を頂けなかったとしても、少しずつたすかりへと、自分の心の成人へと、つながっていくのだと思います。
最後に、いままで取り次ぐ側の話をしてきましたが、取り次いでいただくことも大切な信仰実践だと思います。「人救けたら我が身救かる」。取り次ぐ側も取り次がれる側も身上や心がたすかっていくと思います。
身上の悩みを抱えている人には取り次がせていただき、自分が患えば「取り次いでください」とお願いする。人生で一回でも多くおさづけを取り次ぎたい、また取り次がれたい。たった一回のおさづけが、陽気ぐらし世界実現への小さなの一歩になると信じています。

