岩井建志「幸せってなに?」

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社会の勝ち組

教会に生まれ育った私は、子供の頃「将来、天理教はしないで働こう。たくさん稼いで大金持ちになろう」と心に決めていました。

当時、自教会は神殿建築をしたばかりで大変貧しい生活をしていて、幼い私にとってはみじめで恥ずかしく「不幸せ」だと感じていたからです。「将来はお金持ちになって、食べたい物を食べ、欲しいものを全部手に入れよう。それがきっと『幸せ』なんだ」と信じていました。

そのため、社会人になった私は一生懸命働きました。月に160時間を超える残業をこなし、営業成績で社内表彰を受けるほど人一倍働き、多くの給与をもらいました。稼いだお金は散財し、週末はブランドのスーツを着て外車に乗り、高級ホテルで行われる若手起業家の集まりにも参加していました。

当時は、「これこそが社会の勝ち組で、今こそ幸せなのだ」と確信していました。

しかし、そんな生活も数年続くと、楽しかったお金持ちごっこにも刺激が薄れ、生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのかが分からなくなり、生きることがしんどくなりました。

夢見た生活ができるようになったはずなのに、なぜ幸せに感じないんだろう。これが幸せではないのかと自分に問いかけていました。

神様のお導き

そんな矢先、兄から「今、自分たち兄弟が育った教会が無人となっている。あそこは両親が苦心して建てた教会だし、このままだと申し訳ない。住むだけでいい。教会から通勤してくれないか」と相談を受けました。

まだその時は天理教を信仰するつもりはありませんでしたが、転職の誘いを受けていたこともあり、私は軽い気持ちで受けることにしました。

今思えば、それが神様のお導きだったのかもしれません。

教会に住んでいると、行事やひのきしんに参加せざるを得ない時もあり、休みの日には少しずつ顔を出すようになりました。行事で出会った教会長さんたちは、いつも着古した服を身に着け、壊れそうな車に乗り、お金は全く持っていませんでした。やはり、当時の私の目にはみすぼらしく映っていたように思います。しかし、会長さんたちの顔は、なぜかすごくイキイキとして見えました。

また大教会長様から勧められ、学修のスタッフにも参加しました。学修で出会った同世代の仲間たちは自ら信仰を求めていました。一生懸命学生にお道の素晴らしさを伝える姿はとても輝いて見えました。

教会長さんたちや同世代の仲間たちとの出会いが、お金さえあれば何でもできる、幸せになれると信じていた私の『幸せ』の定義を揺るがしました。

本当の幸せとは?

いつしか自分もあの人たちのように心から幸せを感じてみたい、信仰すれば幸せが分かるかもしれないと思うようになり、仕事を辞めて信仰の世界に飛び込むことを決心しました。

信仰する中で「ないものを追い求めても心は満たされない。それよりもあるものに喜びを感じれば、どんどん心は満たされていく。探せば探すほど今の自分は喜びにあふれている」と気付くことができ、自然と感謝の心が湧いてきました。

そして、これこそが『幸せ』なんだと知りました。

現在、私は父や兄と同じように教会長になりました。決して裕福な生活を送っているわけではありませんが、「今、幸せですか?」と聞かれたら自信を持ってこう答えます。

「はい、すごく幸せです」

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