01. おふでさき擱筆
明治2(1869)年にお始めになったおふでさきのご執筆は、明治15(1882)年のかんろだい没収の後、第17号をもって終えられました。第17号の終わりにあたり、おやさまは、
いまゝでのよふなる事ハゆハんでな これからさきハさとりばかりや (十七 71)
このさきハなにをゆうやらしれんでな どふぞしかりしやんしてくれ (十七 72)
これからは今までのように一々説き諭すような事は言わないから、これまで言ってきたことを台にして、よく思案し、悟りとって道を歩んでもらいたいと述べられ、最後に、
これをはな一れつ心しやんたのむで (十七 75)
と、念を押すように重ねてお記しになり、筆を擱かれました。
一方、おふでさきのお筆を止められた頃から、おやさまは、刻限々々のお話をもってお仕込みくだされることが増えるようになりました。
「刻限」とは、ある限定された時刻、という意味で、いわば、親神様のタイミングでお話があることです。やむにやまれぬ思いから、発せられるお言葉とも言えるでしょう。刻限のお話をもって、これまで教えてきたことをしっかりと実行するようにと、なお一層お急き込みになりました。
02. こふき話
さて、おやさまは、おふでさきのご執筆を終えられる少し前から、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられました。人々は、日頃お聞かせいただいていた教えの筋を書き記せとのご指示だと考え、それぞれ書いておやさまに提出しました。
けれども、おやさまは、それらをご覧になった上で、「それで良い」とは仰せにはならなかったと伝えられます。
どの点にご満足をいただけなかったのかはわかりませんが、こうして先人が記した「こふき話」は、お道の教理を網羅する内容で、おやさま直伝の教えとして非常に重要な位置を占めると言えます。

先人の書き記した「こふき話」とは、どのような内容のものだったのでしょう。
遺された書き物や、その写本がいくつもありますが、その内容は概ね一致しており、元初まりの話、十柱の神名とその守護の説き分け、教祖魂のいんねん、屋敷のいんねん、かしもの・かりもの、一れつきょうだい、心のほこり、つとめの理、をびや、お守り、赤衣について、親里詣り、かんろだい、出直、心の入れ替え、などが記されています。
この内容は、その後、別席のお話に引き継がれ、さらには教義の基準である『天理教教典』の内容にも該当するものです。
このような教理を、先人にまとめさせたのは、どのような目的がおありになったのでしょうか。
03. 「こふき」とは
そもそも「こふき話」というと、「泥海古記」という言葉も知られるように、元初まりの話だけをイメージするかもしれませんが、上記の通り、その内容は、教えの全般に及んでいます。
それゆえ、『おふでさき註釈』では、「こふき」という言葉について、後の世までも語り伝えて、多くの人々を救ける元となる真実の教え、と説明されています。
二代真柱様は、おふでさきの文脈を踏まえ、おやさまが「こふきを作れ」と仰せられたのは、「つとめを完成せよ」という意味で、そのために「取次なる者の心得台本を作れ」ということを仰ったのではないか、とのお考えを示されました。
そして、取次の者を育てる上から、おやさまが口で述べられたお話を記したものが「こふき」であり、あえて漢字を当てるならば「口記」と表記するのが適当ではないかと指摘されました。(『こふきの研究』)
「取次」とは、一般に、中間に立って、一方から他方へ物事を伝達することを言います。
お道では、主として、親神様の教えをおやさまに代って伝えること、また、伝える人を指します。
別席の取り次ぎ、おさづけの取り次ぎ、などの場面で使われますが、広い意味では、おやさまの教えを世界へ向けて伝え広めるようぼくは、みな「取次の者」であると言えるでしょう。
「こふきを作れ」と仰せになったおやさまのご真意は、今となればはっきりと窺い知ることはできません。よって、「こふき」とは何を指すのかについても、様々な悟りがあります。
仮に、『おふでさき註釈』で説明されている、多くの人々を救ける元となる真実の教えが「こふき」だとするならば、ひながたも含め、おやさまの教えはすべて「こふき」と呼べるでしょう。
いずれにしても、道を歩む私たちは、おやさまの手足としてたすけ一条のご用にお使いいただけるように、素直な態度で教えを学び、ひながたを辿り、心の成人に努めることが、最も大切な心掛けであると思います。
今回のまとめ

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