病気を通して
昔から「バカは風邪を引かない」とよく言われますが、中学、高校、大学と学生時代の私は、きっと自分こそがそのバカなのではと思うくらいに健康でした。
それが学業を終えて新社会人になったばかりの時、初めてひどい風邪を経験しました。
最初はちょっとしたのど風邪でしたが、それが悪夢の始まりで、38度の熱と頭痛と咳は、それから3カ月もの間、治まることなく私を苦しめ続けました。
もちろん病院にも行きましたが、薬はまったく効き目がなく、どうしようもありません。
医者も薬も効かないならば、これはきっと親神様の何かご意見の表れではないかと思わざるをえませんでした。
そこで、自分自身のこれまでの通り方を振り返って、いろいろと反省し、親神様におわびをしてみました。
しかし、変化はありませんでした。
なすすべもなく、自分の身体が自分の思うように動かない、苦しい日々だけが過ぎて行きました。
このまま一生治らなかったらどうしようと不安になってしまうほど、何をしても状況は変わりませんでした。
これが丸3カ月も続いた頃、もう肉体的にも精神的にも限界で、最後は情けなくて布団の中で泣きました。
そこまで追い詰められて、やっとある大切なことに気付いたのです。
その時の私は、幼稚園から数えて21年にも及ぶ長い学生生活を終了して新社会人となり、人生の区切りを迎えたばかりでしたが、まだ、そのお礼を自分として親神様にしていなかったことに気付きました。
思えば、この身体は自分が作ったものでもなく、私がこの世に生まれてきたのは自分の力でしたことではありません。
そして、幼稚園から始まって21年間も学業を続けてこられたのも、自分の力だけではありません。
自分を産み育ててくれた親の徳、それ以上に健康に生きてこられたのは、親神様が十全のご守護を下さったからです。
それを深く考えました。
そこで、これまでの人生で良かったこと、救かったことなど、これは親神様のおかげだと思いつく限りの事柄を挙げてみました。百以上もありました。
そしておぢばの方向を向いて、その一つひとつに対して丁寧にお礼を申し上げました。
その上で、病気になるまでそんなことを考えもしなかったことを改めて親神様におわび申し上げたのでした。
すると不思議なことが起こりました。
次の日の朝、目を覚ますと熱はウソのように平熱になり、頭痛も咳もまったくなくなっていたのです。
あんなに苦しんだ風邪の症状は一夜の間に消えてしまいました。
あまりの鮮やかさに鳥肌が立つほど驚きました。
病気は、まさに親神様のお手引きでした。
私はこのことから、身上壮健のありがたさ、身体は自分のものではないこと、人は自分の力だけで生きているわけではないことなど、人生を歩む上で大切なことを身をもって学ぶことができました。
「かしもの・かりもの」について
身体は自分のものではない。このことを『天理教教典』には、「かしもの・かりもの」の教理として次のようにお教えくださっています。
銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に随うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、
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人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。(明治22年6月1日)
と教えられている。
身体は、自分のものではなく、心以外はすべて親神様が貸してくださっているものであり、自分にとっては借りものであります。
その証拠に、私のように病気をすれば、いや応なしに自分の身体は自分の思い通りにはならないことに気付かされます。
では、身体が親神様からの借りものであるということを自覚して使わせていただくとは、いったいどういうことなのでしょうか。
「かりもの」の身体に感謝して
タレントの片岡鶴太郎さんは、持ち前の豊かな感性と才能を発揮して、俳優、画家と多方面に活躍されていますが、その素敵な生き方の秘訣は、実は「身体は神からの借りものである」と考えることにあるそうです。
これは私が以前にインタビュー取材でご本人から直接聞いた話ですが、鶴太郎さんは32才で始めたボクシングを通して悟ったこととして、次のように話してくださいました。
ボクシングのトレーニングをしていて、人間の肉体と精神とは、別々の違うものなのだなということを感じるようになりました。
『大望』 2004年7月号
試合をしていると肉体は疲れているから休みたい。そうしたときに、ひざ痛いけど、心臓バクバクいっているけど、みんな頑張っているんだから頑張っていこうよ。
(中略)
このラウンドが終われば一応クリアなんだからみんな最後まで頑張ってくれよって肉体のパーツそれぞれに話しかけている自分がいるんです。
そうしたときに、ああこの肉体は自分のものだと思っていたけど、そうではなかったんだなあって強く思ったんです。
どこの宗教のどの神様というわけではありませんが、僕の肉体は神様からお借りしている。今生を生きるためには魂だけじゃ存在できないから、肉体と相まって存在を許されているんだと思うんです。
もちろん今生をこの肉体で生きなさいといってお借りしているものだから、この肉体をどう使おうとその人の勝手ともいえます。けれども僕はやっぱりお借りしているものだから精一杯きれいに使わせていただいて、精一杯納得できるいい人生を歩んだ顔つきでお返ししたいと思うようになりました。最終的にどういう人生を歩んで、どういう形で肉体をお返しするか、これが僕の人生最大のテーマなんです。
いつかこの身体を神様にお返しする時に、貸し主である神様に褒めてもらえるような生き方をして一生を終えたい。
それを人生の目標にしているとも話されていました。
そこで鶴太郎さんは、彼なりに考えてある実践を始めました。
それは一日の終わりに必ず、お風呂の中で一時間かけて身体の部位の一つひとつに話しかけて、「ひざも本当に一生懸命頑張ってくれてありがとうございました」、「肩もどうもありがとうございました」というように一日の感謝とお礼をすることでした。
そして、一日を振り返って自分を反省するようにもなりました。
すると、この小さな実践を始めてから鶴太郎さんの人生が一変したそうです。
不思議なことに、それまであまり良くなかった家庭や仕事上の人間関係が好転して、人生が開けてきたのだと聞かせてくださいました。
これは鶴太郎さんの心と行いを親神様が受け取ってくださって、それが人徳となって表に現われてきた結果ではないかと私は思っています。
お話を聞いていて、かりものの身体に感謝して生きるだけで、こんなにも生き生きと心豊かな生活ができるという好例に出会った気がしました。
ところで、このようなかりものの身体にお礼をするという実践を、生命の根本原理に基づいたもっと深いところで教えてくださっているのが、私たちのおやさまが教えてくださった「十全の守護」と「かしもの・かりもの」の教理なのです。
日々に親神天理王命の神名を唱えて、お借りしている我が身に溢れる生命の働きの一つひとつに感謝とお礼をささげる。
これこそが誰もが生き生きと生を楽しんで幸せに暮らすための秘訣であり、すべての人の生き方の基本であることを教えてくださっているのです。
つづく
※『Happist』2009年9月号掲載