「いくらでもどうぞ!」
東日本大震災が起こってから、今年で早12年が経つ。
私が初めて被災地を訪れたのは地震発生から10日後の朝だった。今でもあの時の光景がはっきりと目に浮かぶ。自然がバランスを崩した時の圧倒的な力は、人間にはどうしようもないものだと痛感した。
何とも言えない思いで現場を眺めていたら、現地の教友からこんな一言があった。
「いくらでもどうぞ」っていう言葉ってすごいですよね。
大震災翌日より自衛隊の給水車が一人あたり何リットルまでという形で水を配給してくれた。2時間以上列に並んで、もらえるのはわずかな水。給水車が到着すれば、みな我先にと人だかりができ、寒空の中、家族総出で無言のまま順番を待つ。
その2日後、天理教災害救援ひのきしん隊の給水車がやってきた。
「いくらでもどうぞ!」
その途端、無言の行列に笑顔の輪が広がったというのだ。私の頭には「そんなことをすると、みんなに行き渡らなかったのでは?」との疑問がよぎった。
しかし、結果はその逆であった。みんなが「他の人の分もあるから」と発し、慎みの心で給水していったのである。
一口ずつのサンドイッチ
その不思議な話を聞いた後、私はトラックに積んだ救援物資を搬入するため、ある避難所を訪れた。そこには知り合いの天理教の教会長さんも避難されており、差し入れに持ってきたサンドイッチの袋を手渡した。
その後、会長さんは真っ先に乳飲み子を抱えるお母さんのところへ一包み配り、それから残りを子どもやお年寄りから順にひと切れずつ渡していった。会長さんの手には何も残っていない。私は「もっと持って来ればよかった」と思いながらその光景を眺めていた。
すると、ある男の子が、サンドイッチを半分ちぎって「まだ食べてないひとー」と元気な声で言った。その声を皮切りに、子どもやお年寄りまでもが自分のサンドイッチを半分差し出し、教室にいるみんなに一口ずつのサンドイッチが行き届いた。
たった一人の小さな行動から、笑顔の輪が、たすけ合いの輪が広がっていったのである。
人間はみな等しく、陽気ぐらしを実現するために創られた、親神様の子どもである。だから誰もが心の奥底に「たすけ合いの心」を持っているんだ。
まずは自分から、勇気を出してたすけの手を差し伸べてみよう。そう決意した瞬間だった。