神一条の前にお道一条
恥ずかしいことに27歳になった今でも、私は親神様・教祖の存在を身近に感じたことがありません。「信仰の元一日は?」「そもそも神様とは?」と尋ねられると、はっきり答えられないのが正直なところです。
それでも私は天理教の教会に生まれたことを誇りに思っています。
なぜなら、お道の教えに心から共感し、納得し、感動しているからです。
高校生の頃、「心から神様の存在を信じることができない」と悩んでいた時期がありました。そんな私に対して友人は「それでもお道が好きなんよね? それなら、さとよが信じられるお道の考え方を芯にたどって通ったらいいと思うよ。神一条の前にお道一条! その先に神様を感じられるかもしれないやん!」と伝えてくれました。
「お道一条」という言葉に、心が軽くなり救われた瞬間でした。
悩んでいた理由を考えてみると、天理高校に入学し、周りを見た時、熱心に神殿に足を運び信仰する友人たちがたくさんいました。なので、当時の私は焦っていたんだと思います。自分のペースでお道を歩んでいけばいいんだと、背中を押してもらえたような気がして、より楽しんで信仰を考えられるようになりました。
無理に飲み込まなくていい
学生会やお道の行事に参加すると、神様のお話を耳にする機会がたくさんあります。
それを一緒に聞く仲間が周りにいると、「自分も理解して、この話を吸収しなきゃ!」と思いがちですが焦る必要はないと思うんです。急いで無理に飲み込まなくても大丈夫です。
お話を聞いたり、仲間と行動を共にしたりする中で、一つでも自分が納得できた部分を見つけられたら、それで十分だと思います。
納得してない言葉は「お道っぽい言葉」でしかない
心から理解していないのに、納得した顔をして無理に笑っている人が多い時代だと思います。それを「大人になった」とか「成長した」とか、そういう言葉で正当化して、心の中ではイライラしたり、モヤモヤしたりと、苦しい思いをしている人がたくさんいます。
そもそも自分でも納得できていない言葉が、他の人たちにちゃんと伝わるのか? 私は伝わるわけがないと思っています。そこに信ぴょう性は感じられません。
お道の言葉を伝えるときも同じだと思います。自分が納得できていないお道の言葉を相手に伝えても「お道っぽい」言葉として届くのではないでしょうか?
たった一つからでいいと思います。
心に治まった、「お道の言葉」を使っていきたいですね。