松田純三「見えない恩恵」

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先輩方のおかげで

大学時代、A~Cの三段階評価の成績でCばかり取っていた私が無謀にも台湾の大学院を志した。なぜか合格できた。なぜだろう。後から教授に聞いた話では、縁もゆかりもない日本の大学から、しかもどうしようもない成績の人間が入学願書を出してきたのだから学校側も困ったようで、合否判定会議では当然のごとく不合格だったという。

しかし、たまたまそこに客員教授として赴任していた日本人の先生が「天理大学の中国学科は優秀だと聞くから大丈夫だろう」と後押ししてくれたらしい。本当に目には見えない歴代卒業生の方々の努力のお陰であると感じた。

考えてみればこんな経験は多々ある。布教実習でも同じような経験をした。真冬の奈良と和歌山で野宿して2回とも職務質問された。夜中に公園で段ボールにくるまって寝ていたら、突然近くにパトカーが止まった。

すると、中からガタイのいい警官が出てきて問答無用で車に押し込まれた。学校のすぐ横の公園だったので住民から不審者がいると通報があったとのこと。布教実習で野宿をしていることを伝えると両方とも「分かった。もしまた通報があったらその時は天理教の布教師が野宿布教しているだけだと伝えておくから。朝には離れるように」とのお沙汰。

暖房の効いた署にでも連れて行ってくれるのかなとひそかに期待していたので少し残念と思う半面、このような理解のある対応をしていただき、布教師先輩方の真実の積み重ねを垣間見た気がした。

道をつける楽しみ

見せたいただいたことは言うまでもなく神様のお働きがあってこそである。しかし、誰かが通ってきた道があったからこそでもある。以前、とある先生から「神様は道がなくては出られないと仰る。道をつけるのが私らの仕事」と教わった。

どんなことでも神様のため、世の中のため、人様のためと思ってやれば神様は受け取ってくださるのだと思う。その場その時に誠意をもって力を尽くせば神様も受けとってくださり、人々の心にも残り、それがどこかでつながっていくのだと思う。そして私たちはそんな恩恵を知らないうちにたくさん受けている。

思うような結果が出なくても、人から見れば無駄だと思われることでも、一所懸命やってさえいればその経験は自分自身の糧になる。そしてそれがどこかで、また今すぐでなくとも、いつか人のため、世の中のためになるかもしれない。そう思うと毎日が楽しみである。

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