神様が下さった出愛(であい)
私たちの結婚式の日。仲人(なこうど)の先生がこんな話をしてくださいました。
「人との出会いが、いかに大切かということを私はよく考えます。どんな人と出会うか、これは自分で決めることはできません。生まれてお父さん、お母さんとの最初の出会い。ここから進んで周りの方々との出会い。友人との出会い。恩師との出会い。これは何も自分のえり好みで出会うわけではありません。
すべては神様のお計らいによって、つないでくださる出会いなのです。しかし、その出会いの一つ一つをいかに大切にするかどうかが、その人の人生を豊かにするかどうかの分かれ道になります。
この二人はまさに出逢(であ)いました。この道を共に歩む同志として、これからこの夫婦には、いろんな方々との大切な出会いがあることでしょう。その一人ひとりと心の縁を結んで、素晴らしいたすけ一条の道を歩んでくださると私は信じております」
一目ぼれ
高校1年生の春。私はおぢばで恋をしました。広い広い神殿の中庭で。きらきらとまぶしいほどの笑顔で、水色のパーカーを着た少年に一目ぼれをしました。彼は15歳。一つ年下の男の子でした。名前も知らないその彼を見たのはそれっきりで、それから7年の時がたち、私は気が付けば23歳になっていました
私の青春
私は地元の高校に通いながら、休日には女子青年と鼓笛活動に、そして学生会にと、目いっぱいにお道の仲間との青春を過ごしてきました。
毎年、夏は「こどもおぢばがえり」準備ひのきしんから学生生徒修養会までのフルコースで、青いポロシャツのカウンセラーさんたちに、いつしか憧れを抱いていたものでした。
また、天理大学の4年間では、友と信仰談義に明け暮れ、若いなりに神様をつかませていただこうと、とにかく泣いたり笑ったりしながら通らせていただいた、今となってはかけがえのない、宝物のような時間を過ごさせてもらいました
小さな逃亡
親々の信仰のおかげで、私は小さい頃から本当にお道が大好きで、「結婚するなら絶対に教会にお嫁に行きたい!」と思っていたほど、真っすぐにお育ていただきました。
しかし、苦労知らずの私に神様は少しずつ小さなふしをたびたび見せてくださるようになり、道一条で教会生活を歩んでいるにもかかわらず、心の底から本当に喜べない日々が増えてきました。
「親の思いに添わせてもらいたいと思う自分」と、「求めていただいていることを分かりながらも、素直に実行できない自分」。
自分のできなさ届かなさに本当に嫌気が差してきて、私はある日、しばらくここを離れよう。と、ふと思いました。
数日分の小さな荷物を片手に、私は電車に乗りました。行く当ては特にありません。今なら東にも西にも行けるな。しばらくお暇を頂いて、旅に出るのも悪くないかも。でも気が付けば、その足はおぢばへおぢばへと向かっていました。心が折れたのなら、やっぱり私には教祖(おやさま)のおられるおぢばしかない。
そして、一人の親友の顔が思い浮かびました。心をもう一度、神様の方へ向けるためには、一番神様に素直に心を向けている人に出会うのがいいに決まってる。電車に揺られながら、私は早速彼女にメールを打ちました。
運命の出逢い
天理駅のホームで私を待ってくれていたのは、にこにこ笑顔の親友と、親友の彼氏さん。そしてもう一人。7年前に神殿の中庭で、たった一度見たきりの一目ぼれの少年でした。
彼は22歳になっていました。でもすぐに分かりました。あの時のきらきらの笑顔そのままで、すらりと背だけが伸びて、それはそれはすてきな青年さんになっていました。
心は人生どん底の夏。片手には小さなトランク、ぼさぼさの三つ編みにすっぴんの私。落ちきった今の私に、まぶしいほどの彼。恋の予感は限りなくゼロに近い。そんな夏の出逢いでした。
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