茶谷良佐「感謝のおつとめ 」

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感謝のおつとめ

昨今、あおり運転のニュースをよく見聞きするようになりました。

私は、一人で運転しているときに車中で聴く音楽がとても楽しみです。それも、割りとテンポの速い重低音の利いた曲を好むのですが、それがとても気持ちいいんです。自然と心が弾んできます。

ある日、次の目的地に向かって音楽を聴きながら気持ち良く車を運転していました。ふとサイドミラーを見ると、 後続車が昼間にもかかわらずライトをつけています。「ん?」と思ったのですが、最近では交通安全のために早めの点灯を心掛けている人もおられます。

しかし「それにしても早すぎるやろ」などと考えていたら、次は「プップップッ」とクラクションが鳴ったんです。よく見ると、そのライトをつけてクラクションを鳴らす後続車が、 私のサイドミラーにくっきりと映るほど右寄りに走行しているではないですか。

「これは、鳴らされたんだ」。車線変更してもついてくるし、いよいよ窓を開け、こちらに手招きまでしてきます。「もしかして、あおられてる?」「何か気に障るような行為をしたのかな?」などと考えますが、全く身に覚えがありません。

再びサイドミラーを確認すると、次は手に何かを持っているんです。「えっ、あれはもしかして……」

そうなんです。その人はなんと、私の靴を届けてくださったのです。

数分前、とある駐車場を出発したのですが、その際に履き替えた靴を、車の屋根に置いたことをすっかりと忘れて車に乗り込みました。要するに、走行している車の屋根に左右の靴が載っている状態です。

どうも左折時に靴の片方が転げ落ちてしまったようです。すると、数台後ろを走っていたその人が、わざわざ車を停めて靴を拾い、私を追いかけて来てくれたということなのです。

その人は「靴が見当たらなかったら大変でしょう」と優しくほほ笑んでくれました。私はすっかり恐縮、感激して、お礼とお詫びを繰り返すばかりです。その人の車が見えなくなるまで最敬礼で見送らせていただきました。

きっと予定もあったと思いますし、車を停めて靴を拾うという行為は、とても面倒くさいことです。ましてや、相手を思いやる心がなければ、普通は見て見ぬふりをする場面かもしれません。私の心がとても澄まされ、幸せな気持ちになった出来事でした。

「人は人と生きるものだ」と聞いたことがあります。まさに、その通りだと思います。必ず誰かのお世話になり、助けられながら生きているものです。私なんかは、大人になった今でも、親にはずっとお世話になりっぱなしです。

おそらく、世界中を見渡しても自分一人の力で生きているという人は、誰一人としていないでしょう。そのことを思うと、人に対して感謝の念を持つことは自然なことだと思いますし、実際に当たり前のことに感謝するという人は、世の中にたくさんおられます。

さて、天理教では、普段からの当たり前に対してお礼する方法として「おつとめ」を教えていただいています。おつとめには、人間を創造されたときのお働きが込められているので、おつとめによって今もなお、十全のお働きをしていただいています。

親神様のご守護を知り、感謝し、そして心を入れ替えて、澄んだ心でおつとめをするところに、たすけあいの輪が広がっていくものと信じます。これが、私たちの目指す陽気ぐらしであります。

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