手渡されるバトン
「人は死ぬと、どうなると思いますか?」
大学生に、このような質問をしたことがあります。
Aさん「天国や地獄に行くのではないでしょうか?」
Bさん「僕は、死んだら何もなくなって“無”になるのだと思います」
Cさん「宇宙のどっかに飛んでいくのかなと思ったりしますが……」
このように、いろいろと答えてくれました。
その中で一番多かった答えは……
「考えたことがありません……」
もしかすると、多くの学生さんは、今までにお葬式に参列したこともあまりなく、身近に「死」に触れたことがないのかもしれません。
でも「死んだら、どうなるんだろう……」というのは素朴な疑問ですよね。
皆さんは、考えたことはありますか?
今回は、明治21年4月16日の「おさしづ」を通して、「死」について親神様がどのように教えられているのかを学びたいと思います。
明治21年、山澤家にサヨという女の子が生まれました。
ところが、2カ月ほど経った頃、病気になってしまいます。
そこで『おさしづ』を伺いました。
おそらく、伺った人はサヨさんの親御さんだと思います。
親神様は「おさしづ」の中でサヨさんの病気について「心配することはない」と仰せられた後、次のような意味のことを伝えられました。
親神が、待ちかねて同じ魂を連れて戻った。人というものは親が子となり、子が親となるものである。以前の名を呼び出せといっても、親神が呼び出さなければ人間には分からないだろう。さあ、その子は生まれ変わったのである。前の名は「はる」という。
皆さん、分かりますか?
最後の方で、このサヨという赤ちゃんが「はる」という方の生まれ変わりだと教えられています。
はるさんは、サヨさんにとって祖母にあたる方です。
つまり「おさしづ」を伺った親にしてみれば、自分の娘(サヨ)が、実は、自分のお母さん(はる)だったことになります。
そのことを「おさしづ」では「親が子となり、子が親となり」と仰せられているのですね。
とても不思議なことです。
人間はそうやって「親が子となり、子が親となり」、いのちを繰り返しながら、お互いにたすけ合っていくのでしょう。
親神様としては、はるさんが亡くなったとき、「早く生まれ変らせてやりたい」と思われたのだと思います。
そして、適切なタイミングを待たれたのでしょう。
この度、ようやくその日が来て、「待ち兼ねて同じ魂を連れて戻りた」と仰せられています。
「死」は終わりではなく、魂の生まれ変わりであり、「出直し」だと教えられています。
ところで、おやさまの他のお言葉など見ると、生まれ変わりは「祖母」が「孫」になるというパターンだけではないようです。
直系の先祖ではなくても、前生で何らかの縁がある人が生まれ変わってくる場合もあるようです。
このような話を聞くと、自分が誰の生まれ変わりかが気になるところですが、「おさしづ」の時代が過ぎた今は、もう知りようがありません。
そして、きっとそれでいいのだとも思います。
そもそも「おさしづ」でも、サヨさんの場合のように少しは例示するけども、一人ひとりについては「誰がどう、彼がどう、とは言わん」(明治31年4月29日)とも仰せられています。
すべてがはっきり分かってしまうと、それはそれで大変なことになるのかもしれません。
大切なことは、自分が誰の生まれ変わりであるかを具体的に知ることより、自分という存在を親(先代)や子(後代)とのつながりの中で考えるということだと思います。
先の人から手渡されてきたバトン。
そういうものがあるとすれば、あなたはそれを次の世代へ、どのようにつないでいきたいですか?
明治21年4月16日
山澤サヨの願
さあ/\いかなるも聞き分け、見分け/\。めん/\心に掛かるから尋ねる。小人の處一つ心に掛かる。前に聞いたるばかりでは分かり無い。さあ小人の處、分からず/\中の理とさしづ貰わねば分からん。いかなる理に基き、知らん間はそのまゝや/\。小人前々運ぶ一つの理、小人一つの心、めん/\一つの心見にゃ分かろうまい、聞かにゃ分かろうまい。まあ/\一つの自由見て、又内々の處、心に掛かる處、皆聞き分け/\。案じる事は要らん/\/\。身の内の一つの自由。
サヨ生れてより、六十日目経ちて、身上障りに付願
さあ/\/\小人の處、さあ/\小人々々、さあ/\小人々々連れて戻りた/\。一寸生れ出し大変の處、案じる事は無い。どう成るこう成る、又々の處尋ねる事情をさいてある。今の處一つ分かる。今までの處早く呼び出せ/\。一つの處早く名を呼び出せ。待ち兼ねて連れて戻りた。親が子となり、子が親となり、名を呼び出せ。一時名を呼び出さねば分かろうまい。さあ/\生れ更わりたで。名ははる。名は付けたる印の名でよい。一時呼び出さにゃ分かろうまい。