『おさしづ』#4 自分って誰だろう?

もくじ

自分って誰だろう?

「自分って誰なんだろう?」
「なぜ自分はこんなところにいるんだろう?」

そういうことを考えたことはありませんか?

家族の中での、自分の立ち位置。
教会の中での、自分の居場所。
なぜ自分は天理教を知るようになったのか……。

少し難しいかもしれませんが、今回はそうした問いの根本にある「自分」について「おさしづ」を手掛かりにしながら考えてみましょう。



自分って何なのでしょうね……。

「おさしづ」を見ていくと、明治23年8月9日、鴻田忠三郎という方が伺ったものに次のような意味のお言葉があります。

さあさあ、人間というものは神の子どもである。親子やきょうだい、同じ身内といえども、それぞれ一人ひとりに心というものを持って生れている。

皆さん、どうでしょうか?
まず、はっきりと「人間は神の子どもである」と述べられています。
実感が持ちにくいお言葉かもしれません。

例えば、お母さんと自分で考えてみましょう。

お母さんと自分は、人間関係から見れば「母」と「子」です。
ところが、この「おさしづ」の視点からいえば、その2人は「母」と「子」である前に、同じ「神の子ども」として「きょうだい」ということです。

これはとても不思議なことですね。
自分とお母さんに、親子以外の関係があったなんて……。

お母さんと自分は、魂の上からいえば、まず、親神様という同じ親を持つ「きょうだい」。
そして、その上で、今生では「母」と「子」として縁を結んでもらったということです。
前生では、もしかすると親子とは違った間柄だったかもしれません。

そして、このことは、お母さん以外の人にも当てはまります。

お父さんも、兄弟姉妹も、親戚も、友達も、教会の人も、街ですれ違う人も、世界中の人はお互いに「神の子ども」であり、人間関係を結ぶ以前に「きょうだい」だと教えられています。

その意味で、世界中に「他人」という人は一人もいません。
見ず知らずの土地に暮らしている人たちも、自分にとっては、やはり同じ親を持つ「きょうだい」です。

さて、その上で、もう一度『おさしづ』を見てみましょう。

続きには「一人ひとりに心がある」と教えられています。
同じ親を持つ「きょうだい」ではあるけれども、その心は同じではないということ。

これは、皆さんも実感が持ちやすいのではないでしょうか?

例えば、お母さんが、わが子に対してあれこれ言っても、その子にはその子の気持ちがありますよね。
お母さんとその子では心が違います

また、家族の中で自分だけが天理教の教えを聞いているという人もいるでしょう。
それこそ、それぞれに心が違うからだと思います。

あるいは、たとえ家族みんなが同じ教えを聞いていたとしても、やっぱりそれぞれに受け取り方は違います。

当たり前といえば当たり前ですが、一つ屋根の下に暮らしていても、やはりその人だけの心の道があるということだと思います。

もう一度整理すると、
(1)人間はみんな「神の子」で、お互いに「きょうだい」
(2)その上で、その人だけの心の道がある。



さて、親や家族との関係で悩んだり、自分の進路を考えるときに、ふと「自分って何なんだろう?」と思う時があるかもしれません。

そんな時は、まず、自分と親神様の関係で考えてみませんか?

そう考える中に、自分のこれから歩むべき道が見えてくるのだと思います。

明治23年8月9日
鴻田忠三郎願
さあ/\尋ねる前々の事情には、一つ席を変え、一つ一名一人どういう事も、長らえての事情であるからどんな日もある。今日に到って事情分かる分からん一つ事情、余程の年限が経つ。先々の處はどうであろ。秘そかにして一名一人尋ね出るなら、生涯の理を諭そ。ついで/\何名という。一席一日という、一席一日の日には生涯の理を聞かそう。長らえての中に、これが分からにゃと言うた日もある。日々の處、尽す事情は日々に皆受け取る。どんな事を聞いても聞き遁がし、めん/\心を定めるなら受け取る。身上一寸不足あらば先々を案じる。運んだ尽した處も皆生涯の理を治めるよう。これからは長くの事情を諭し置こ。しっかり聞き取れ。

押して願
さあ/\人間というは神の子供という。親子兄弟同んなじ中といえども、皆一名一人の心の理を以て生れて居る。何ぼどうしようこうしようと言うた處が、心の理がある。何ぼ親子兄弟でも。

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