足し合い
「たすけ合いって、足し合いのことやで」
私は昔、ある婦人の先生からこのように教えてもらったことがあります。
足し合い……?
それはどういうことでしょうか。
その先生は、耳に少し障害があります。
若い頃から不自由だったそうです。
また、先生の娘さんは生まれつき足腰に障害があり、杖をついて歩いておられます。
耳の不自由な母と、足腰の不自由な娘。
そのことから次のように話されました。
「私は耳が遠いから、例えば家にお客さんが来たら、この子が代わりに話を聞き取ってくれて、大声で私に伝えてくれます。反対に、私は歩くのはまだ大丈夫だから、お客さんにお茶を出したり、この子の代わりにいろいろと持ち運びできます」
そして、ニコッと笑われて、
「そうして、2人でたすけ合いをしています」
このようにお話しくださいました。
相手の足りないところを自分が足す。
そして、自分の足りないところは相手が足してくれる。
たすけ合いとは「足し合い」、つまり、お互いに足りないところを足し合うことと教えてもらいました。
私は、この時、聞かせてもらったことを今でも鮮明に覚えています。
さて、明治25年5月1日の「おさしづ」に次のような意味のお言葉があります。
さあ内々にもたすけたすけ、たすけあいたすけあい、たすけあいという
ここでは身内、家族、仲間内などの「内々」において、身近な人たちとのたすけ合いの大切さが諭されています。
この先生は、まさにそれを実践されておられるのですね。
他方で私に関していえば、身内どころかあらゆる場面で、まだまだたすけ合いが実践できていないように思います。
誰しもそうかもしれませんが、私は自分の弱みを人に見せるのが苦手です。
例えば小学生の時、クラスのみんなができていることなのに、なぜか自分一人だけできないということがありました。
「助けてほしい」
その一言が言えずに、焦燥感でいっぱいになって急に泣き出したことを覚えています。
普段クールな私がヒックヒック泣いていたので、周りの友達もびっくりして、先生が慌てて手伝ってくれました。
反対に、私は人の弱みを見つけることが得意です。
あの人にはこれが足りなくて、この人はこういう性格を直せばいいと常に考えているように思います。
「どうすれば、相手に楽をしてもらえるだろう?」
なかなか、その発想になれません。
親切にされると逆につらい。
優しくされても、優しさを返す自信がないから……。
結局、自分は無力と決めつけて、人の弱みを探している。そのような現状です。
しかし、私に足りないところがあるのは、おそらく自然なことでしょう。
そのままの自分は、美しくはなくとも、嫌うほど醜くくもないはず……。
そして、それはきっと周りの人も同じことですよね。
単にそれぞれ「できること」と「できないこと」があるということだと思います。
問題は、そこから「足し合い」ができるかどうか。認め合えるかどうか。工夫し合えるかどうか。
そのために、今自分に何ができるのでしょうか?
まずは「自分も十分優しい人間なんだ」と、自分の値打ちを受け入れることから始めます。
ニコッと笑われた、あの時の先生の顔を思い出しながら。
明治25年5月1日
村田長平身上より事情願
さあ/\いかなる事情以て、いかなる事情尋ねる。間違い掛けると、何も彼も間違い掛ける。この所どういう処から出たるか、よう聞き分け。どんな者も連れて戻る、どんな者も連れて帰る。これ聞き分け。一軒、だん/\住家一つの理もある。世上一つ理、事情固める一つ理、一こう固める一つ理、これ聞き分けにゃ分かり難ない。小さい事でどうしよう、こうしよう理あろまい。事情切り取りという理更に無い。難儀不自由、不自由であろう。これ諭す。どんな事諭すなら、善き事も現われる、悪き事も現われる。そんなら難儀現われるとは。一代これ聞き分け。長き短き、これ聞き分けにゃ分からせん。小さい事心に掛ける。これ諭し置くによって。
押して、小さい事心に掛けると仰せ下さるは前生の事でありますや
さあ/\内々にもたすけ/\、扶けやい/\、扶けやいという。互い/\扶けやい、これ聞き分け。扶けやいも幾重理もある。この所互い扶けやい、これ聞き分け。心で尽す理もある。尽すにも幾重もある。日々運ぶ理に声無き理運ぶ。これ聞き分け。又々の中、理の寄せる事、とんと受け取る事出けん。声無き一つ理と聞き分けて、これ一つ遁れん事と聞き分け。これ諭し置くによって。
本人出してくれと申しますが
さあ/\未だ一寸にはいかん。一日二日と一寸心に待ちて居る。一日二日一寸でいかん。どうも心治まろまい。出してやろう、可哀想であろう。なれど、心休まるまで運ばにゃならん。一人々々顔見せず、見せばだん/\心が出る。これ一つ諭し置くによって。