お金で買えるものと買えないもの

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お金で買えるものと買えないもの

お金は生活において必要なものです。

今の社会では、ほとんどの物はお金で買えるし、お金持ちになりたいと思う人も多いでしょう。

でも、お金で買えないものもきっとあるはずですよね。
皆さんなら、何を思い浮かべますか?

少し考えてみましょう。
そもそも「お金を使う」とは、どういうことなのでしょうか?

例えば、本屋さんで漢字ドリルを300円で買ったとします。

漢字ドリル ⇔ 300円

漢字ドリルと300円の交換で漢字の知識は身につくでしょうか?

答えはノーですね。
漢字ドリルを使って勉強しなければ、知識は身に付きません。
つまり、漢字の本はお金で買えても、漢字の「知識」はお金で買えません

今度は野球のバットとボールを2000円で買ったとします。

野球のバットとボール ⇔ 2000円

それではバットとボールを持っていれば、その人はカキーンとヒットを打つことができるでしょうか?

答えはノーですね。
ヒットを打つには、練習しなければなりません。
高額の年俸をもらっているプロ野球選手でも10回に6回以上は失敗します。
「ヒット」は、お金では買えません

このようにお金で漢字ドリルやバットといった物は買えても、「学ぶこと」や「野球をすること」自体は買えないことが分かります。

さらに考えてみましょう。

私たちはお金で漢字ドリルやバットを買うことで、実は、漢字を学んだり野球をしたりする「チャンス」を買ったのだともいえます。

学ぶチャンス ⇔300円
野球するチャンス ⇔ 2000円

そして、お金で買えるのはチャンスまでです。
漢字ドリルを持っていても、実際にそれを使わなければ、漢字の知識を得るチャンスを生かすことはできません。

野球をする機会があっても、バットを持とうとしなければ、ヒットを打つ喜びも、三振する悔しさも味わうことはできません。

お金は必要なものです。
しかし、人生の値打ちは、お金では買えないところにこそあるといえそうです。

さて、前置きが長くなりましたが、「おさしづ」では「お金で買えないもの」がはっきりと教えられています。

例えば、明治35年10月7日の「おさしづ」に次のような意味のお言葉があります。

自由というものは、どれほど金銭を積み立てたと言っても成るものではない

言い換えれば「神様の自由自在のお働きは、お金では買えない」ということです。

野球でいえば、まずバットを買います。
それから野球チームに入って、一生懸命練習したとします。
そして試合の日、いよいよバッターボックスに入ります。

しかし、その時、急にお腹が痛みだしたらどうでしょうか。
自分ではどうしようもできません。
とっさに「神様……」と願うのではないでしょうか。

その瞬間、お金では買えない神様のお働きが発見されます。

繰り返しますが、お金で買えるのはチャンスまでです。
そして、そのチャンスを生かせるかどうかはその人次第です。

さらに「おさしづ」では、チャンスを生かすといっても、やはり神様のお働きがなければ物事は成り立ってこないと教えられています。

お金では買えない喜びや悔しさにこそ、神様のお働きがあるのではないでしょうか。

明治35年10月7日

諸井政一身上九月二十九日一時迫り切り又それより日々と送れるに付分教会役員一同揃うて願

さあ/\だん/\尋ねる事情、身上の理尋ねる事情、さあ/\もういかなさしづも前々に諭し置いたる。又一時鮮やかならん/\中に、なあとてもなあと言う。一つ身上から何か諭し置く。聞き分けにゃ分かり難ない。身上長らえてなあ/\残らず、時々折々皆思うやろう/\。思う処に一つ諭し置くによって、よく聞き分けにゃならん。どういう事であろうこういう事であろう、と思うは理であろう。よう聞き分けにゃならん。どういう理聞き分けるなら、何よりと言うは、皆多く立ち寄る理は道の理から成り立ったるもの。何ぼ遠く所でも運ぶ理は、道の理から何でも無い事であろうまい。是非無く皆心合わせてすれば、何よ分かる。どんな事も自由と言うたる。自由というは、何程の金銭積み立てたと言うて成るものやない。この心から先運ぶなら、何が成らんやない。何よう一時越したる。もう一時暫く/\なれど、大層追々というは、何程の楽しみとも分からん。どんな事も皆世上見てどういう事も、こういうたんのう治め。一夜の間にもどういう事、こういう事もある。この理から聞き分けば分かる。たゞどうなるも心繋ぎ/\日を楽しんで行くなら、どんな難しい処でも連れて通る。よう聞き分けにゃ分かり難ない。道は末代、理は末代、この理持ってくれ。いかなさしづも籠もりある。どんな事も、世上の理見てたんのう治めてくれるよう。まあ一先ずと、一寸言うて置こう。

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