生活の要
知り合いに、夫婦2人とも「ろう者」の方がいます。
ろう者とは、耳に難聴があって、音声言語を使わない方です。
ご夫婦で会話するときは、手話を交えながら、お互いの顔の表情や口の動きを読んでコミュニケーションされます。
例えば、向こうにいる相手に対して、何か用事があっても「おーい」と呼ぶことはしません。
相手のところまで歩いて行って、顔を見て伝えます。
皆さんは、そのような伝え方をしたことはありますか?
一緒に生活すれば、過ごした時間に応じてだんだんと相手のことが分かってきます。
しかし、その反面、お互いを知れば知るほど「分かり合えなさ」のようなものも実感されるのではないでしょうか。
やっぱりよく分からない相手。
その人に対して毎回腰をあげて、足を運び、顔を見て、表情いっぱい伝える。
そこに、お二人の生活の要があるように思います。
お二人は、とても仲良しなのです。
さて、明治33年3月22日の「おさしづ」では、次のように教えられています。
人間は、その身が神からの「かりもの」であることが分からない……。しかし、それが分かれば、たすけ合いの心が思い浮かぶだろう。
ここでは、この身体が「神様からのかりもの」であることが分かれば、たすけ合いの心が持てるようになると教えられています。
このご夫婦の場合、確かに「聞こえ」は不自由です。
しかし、その代わりに音声では表現できない「言葉」を持ち、共に暮らしていく努力をされています。
きっと、この教えを生活の土台に据えて、お互いの身体を「神様からのかりもの」として大切にされておられるのではないでしょうか。
「かりもの」を大事にしながら、日々を地道に歩んでおられるのだと思います。
わが家でいえば、最近、父の耳がだいぶ遠くなってきました。
会話の中でよく「えっ?」と聞き返すので、そのたびに大声で言い直します。
問題は、その瞬間です。
「えっ?」と聞かれた後、勢いに乗って乱暴な言葉で返すか、落ち着いて丁寧な言葉で言い直すか。
家族みんなで暮らしていると、私たち大人の会話を子どもたちが聞いています。
会話が途絶えがちな相手でも、目上の人として敬うことができるのかどうか……。
子どもは、大人の会話からそれを学んでいるのではないでしょうか。
当人にとって、難聴はとても大変なことでしょう。
しかし、私たち家族にとっては、子どもたちに何かを伝えるために、父が代表して「聞こえにくい耳」をお借りしているともいえます。
そして、それを真に「かりもの」として大切にできるかどうかは、私たち大人の態度にかかっています。
ここがわが家の生活の要です。
あのご夫婦は、こうした場面でこそ丁寧に暮らしてこられたのですね。
皆さんにとって、「かりもの」の値打ちが発揮されるような生活の要はどこにありますか?
明治33年3月22日
河合藤太郎三十八才身上願
さあ/\尋ねる事情/\、身上一ついかな事情、どうも長らえてなあ、どうもなあ、と思う。思うから尋ねる。尋ねるからは、一つ諭す。諭すから一つ心に理が治まらねば、何度でも同じ事。道のため誰彼なあ、道のため尽し掛けたる理は、将来と定めて通り、又内々治まり難ない事情もあった。日々身上に掛かりて来たら楽しみ無い/\。よう聞き分け。一時どうとは無い。なれど、だん/\迫るという理/\早くたんのうという理、一寸諭す。よう聞き分け。これまで尽したのになあ、又他に何と思うというは、尽した理は、薄くするようなもの。それ人間という、一代と思たら違う。末代の理に治まる。めん/\もあのようの事と、尽した理は将来末代の理に受け取ったる。これよく諭して、心休めさしてやれ。皆持ち合い運び合いの心持って、運び合いというは、兄弟なら兄弟のように、扶け合い、皆めん/\の事に合わせば、皆めん/\そうであったら/\、人間は、かりもの分からんから。かりもの分かれば、扶け合いの心浮かむ/\。この理諭したら、救けの道理、この理一つである。身上は余程大層なれど、しいかり理が治まれば、又暫くという。