潮騒の音
ある日の午前中、ラジオをつけると、高校生のときによく聞いていた曲が流れてきました。
潮騒の音がもう一度 届くように
『瞳を閉じて』 松任谷由実
今 海に流そう
ベッドの上に寝転びながら、あの頃が思い出されて、とても懐かしく感じました。
声と詩と音楽。
それが私の耳に届いて、この胸を満たしたのです。
何とも言えない時間でした。
皆さんにも、そういう経験があるかもしれませんね。
思えば、この身体はとても不思議です。
耳に聞こえてくるもの。
目に見えているもの。
手が触れているもの。
私の心は、この身体を通して、さまざまな気持ちを感じています。

さて、明治21年7月24日の「おさしづ」に次のような意味のお言葉があります。
身体があって、心があるということ。身体がなければ心に思うこともできないだろう。
同じものに触れても、それをどのように感じるかは人それぞれです。
その意味で自分の心は「自分のもの」といえるでしょう。
しかし、心で感じる以前に、そもそも身体がなければ、何かに「触れる」こともできません。
聞いてみて
見てみて
触れてみて、心が動き始めます。
嗅いでみて
食べてみて
味わってみて、心で感じます。
どれほど「心は私のものだ」といっても、自分の心はそれだけで存在するのではなく、この身体があってこそ働くことができます。
この「おさしづ」では、改めてそのことが教えられているのですね。

思えば、この身体には不思議な働きがいっぱいあります。
数字だけを見ても……
1日で呼吸を約3万回していること。
心臓は約10万回拍動していること。
それが今日まで変わらずに続いていること。
どうしてそんなことが可能なのでしょうか?
なぜ一日も途切れることなく動き続けられるのでしょうか?
それは私の想像を越えた働きであり、とても「私のもの」とは言えないような不思議さです。
改めて、おやさま(教祖)の教えが思い出されます。
すなわち、おやさまは、この身体は神様のものであり、私たちはそれをお借りしていると教えられました。
そして「私のもの」は心であり、神様から与えられた人生をどのように味わうかは心次第と教えられます。
そう思えば、私は現在、神様から「音が聞こえる耳」をお借りしているといえます。
借りものならば、やがてお返しする日も来るのでしょう。
それがいつなのかは分かりませんが、いつか来るその日まで、あの時のラジオのような瞬間がまた訪れることを楽しみにしています。
明治21年7月24日
田代兵蔵四十七才身上願(近江国甲賀郡三大寺村)
さあ/\身上一条理を尋ねるから、一つのさしづしよ。人間というものは、皆かりもの。この理を分からんや、何にもならん。身のかりもの八つのほこり一時分からんやならんで。どうせこうせえとも言わんと。身のかりもの何を悪いとさしづすれば、分かるで。成ろとなれども、人間というものは心というものある。そこでどうせえとも言えんで。身上ありて心あるもの。身上無うては心に思う事も出けよまい。先ず/\誠日々の処第一。内々の処、誠という理を治まれば、自由自在と。成程の内や、成程の人やなあと言う。めん/\誠の理を映るからや。どうせこうせと言うわん。たゞ心次第とのさしづと。