ちゃんと仕立てて
毎朝、本部の朝づとめ15分前。
教祖殿に人々が集まり、静かに正座をしています。
しばらくすると、おやさま(教祖)のお出ましです。
婦人の先生とともに「赤衣(あかき)」がお移りくださいます。
その瞬間、場が改まり、それから本部の先生の手に合わせて礼拝。
おやさまに、ごあいさつ申し上げます。
「おやさま、おはようございます」
このように、私たちはご存命のおやさまにごあいさつし、お礼やお願いを申し上げ、胸の内でさまざまな相談をさせてもらいます。
存命とは「命が存在する・生きている」という意味です。
ところで、皆さんは、おぢばに帰って「お守り」は頂かれましたか?
お守りには、おやさまの赤衣を小さく切ったものが渡されています。
おやさまがお姿を隠された後、しばらくはおやさまが着ておられた赤衣が切り分けられて、お守りとして渡されていました。
ところが、お守りを頂く人はそれからも続き、3年も経つと赤衣は全部出尽くしてしまいます。
そこで、当時の人々は、その後お守りをどうすればいいか「おさしづ」を伺われました。
すると…
さあさあ、お守りはいつまでも続かなくてはならないが、教祖が着ていた赤衣自体はいつまでも続かないだろう。
そして、お守りを渡すだけならいちいち赤衣にせずとも、赤い布地を切って渡せばいいと思うかもしれないが、それでは理がない。
そこで、ちゃんと赤い着物に仕立てて「これにお召し替えください」と願って、それをお守りとして渡すように。そうしてこそ、これまでと変わらない道となる。
明治23年3月17日
このように教えられました。
しかし、お姿のないおやさまに「これを着てください」と願うとは、具体的にはどういうことなのか……?
人々はその意味を理解しかねて、もう一度「おさしづ」を伺いました。
「願う」というのは、おやさまの御前にお供えするということですか?
それとも、本席(飯降伊蔵)さまに「これを着てください」とお願いすることですか?
再びこのように尋ねると、次のような意味のお言葉を頂きました。
さあさあ、教祖はこれまでと同じようにここに住んでいる。どこへも行ってはいないで。日々の道を見て、それを思案してくれねばならん。
同日
おやさまはここにいる……
それをしっかり考えてほしい……
そのように聞いて、改めて、それでは赤衣はやはりおやさまの御前にお供えするということですか?
と尋ねると……
さあさあ、ちゃんと赤衣を仕立てて「お召し替えができました」と言って、夏になれば単衣(ひとえ)、寒くなれば袷(あわせ)というように、それぞれ季節に応じた着物をこしらえたなら、教祖はそれを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同じ事やで、姿が無いばかりやで。
例えば、着物は布地のままでは着ることはできないので、お姿があったなら、おやさまに赤い布地のままお渡しすることはあり得ません。
それと同じことやで、
姿が見えないだけやで、と。
そこで、ご存命のおやさまにご不便がないように、ちゃんと赤衣に仕立てて「これを着てください」とお願いするようにと教えられたのです。
このように「おさしづ」では、おやさまがご存命であることが繰り返し諭されています。
明治23年3月17日
御守はこれまで教祖の御衣物を御守に用い来たりしに、皆出して了いになり、この後は如何に致して宜しきや伺
さあ/\尋ねる処、守いつ/\続かさにゃならん。赤衣という、いつ/\続かんなれど、そうせいでもいと、何尺何寸買うてそうすればよかろうと思うなれど、赤き着物に仕立てゝ供え、これをお召し更え下されと願うて、それを以ていつ/\変わらん道という。御霊前へ供えますや、本席へ御召し更え下されませと御頼み申しますや、どちらでありますや願
さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。押して、御霊前へ赤衣物に仕立て、御召し下されませと御願い致しますにや
さあ/\ちゃんと仕立て御召し更えが出来ましたと言うて、夏なれば単衣、寒くなれば袷、それ/\旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。