おかえり
おぢばに帰って、教会本部の中庭を歩いていました。
その日はとても天気が良くて、青空が広がっていて……
思わず両手を上げて、ぐーっと伸びをしました。
気持ちいい~。
それから、一歩一歩ゆっくり歩きました。
砂利の音がザク、ザク。
何気なく、ふーっと深呼吸をします。
日々の歩み方も、そうなのかもしれません。
何も慌てなくていいんだなと思いました。

さて、明治28年10月11日の「おさしづ」に次のような意味のお言葉があります。
元という、ぢばというは、世界にもう一つと無いもの。思えば思う程深き理。
「ぢば」(地場)とは「場所」という意味で、ここでは「人間が創造された場所」を指しています。
人間がもともとどこで、どのように始まったかなんて私たちには知りようがありません。
人間を創造された神様だからこそ、そうした元の場所を示すことができます。
そこで、神様は、おやさま(教祖)を通して、元のぢばを定めてくださいました。
明治8年のことです。
そこは、世界にもう一つとない場所。
思えば、とても不思議な場所です。

北海道に生まれ育った人にとっては、北海道が故郷です。
その人が外から北海道に戻るとき、北海道に「帰る」と言うでしょう。
ところで、人は死んでも再びこの世に生まれ変わってくると教えられています。「出直し」の教えですね。
そこで、例えば北海道で生まれ育った人が、その人生を終え、同じ魂が今度は沖縄で生まれ変わったとします。
すると、今度の人生では、その人の故郷は沖縄であり、もう北海道に「帰る」とは言いません。
このように「魂の生まれ変わり」を考えると、生まれ変わる度に出生地も変わるので、その都度の人生で故郷が違ってくるといえます。
しかし、おぢばは、人間という存在そのものが始まった場所です。
何度生まれ変わっても、あるいは世界のどこに生まれ出たとしても、いつも「帰る」ことのできる故郷です。
時と場所を超えて、親神様・おやさまが私たちの帰りを待ってくれている場所。
ここには、どれほど深い親心が込められているのでしょうか。
明治28年10月11日
本席四五日前より御身上御障りに付、本日本席に御出ましに相成り御願
さあ/\一寸尋ね掛ける処、尋ね掛けるは一つ事情、いかな事万事さしづ以てさしづに及ぶ。何でも彼でも理を台として立てゝ行く。理に向かわんよう、逆わんよう、これだけ治め掛けたらどんな事でも治まる。世上に理があればどうであろうと言う。重く思うはめん/\心に理があるから案じる。どんと心を治めてくれ。道の理踏み被り無きよう、世上に理を下ろしたる。理を聞き分け。治まる治まらんというは心から。よう聞き分け。文字も分からぬ者でも、道に使う理を聞き分け。所には名称下ろしたる。そも/\から治まらん。一つの芯が元である。芯が狂うから、間違う。間違うから治まらん。二度三度運ぶ理を聞き分け。元という、ぢばというは、世界もう一つと無いもの、思えば思う程深き理。古いもの埋れてあるというは、よう聞き分け。人間の心では分からん。分かり掛けたら分かる。古いものは所々又所々出るに出られんという。よう聞き分け。理の取りようで軽くなる。出て来る理は神の理でなると聞き分け。誰彼は一寸には言わん。ほんにこれは成程と考え出して、これと/\鮮やか浚えてくれ、誰にこうして彼にこうせいとは言わん。理から掛かりてくれ。いつから掛かるとも言わん。掛かれば、皆育つ。育て心を以て治めてくれ。あちらに一寸囲いがあって、これがどうも一つとんと鮮やかならん。これ聞き分けるなら、何も危なき怖わきは無い、と諭し置こう。
(以下、省略)