第8回 ひのきしんは千種万態

『天理教教典』第八章「道すがら」は、信仰の道に就いた人間の生きざまがどのように変わっていくのかが書かれています。

それは、

見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。

『天理教教典』 74ページ

と言われます。その中、

日々常々、何事につけ、親神の恵(めぐみ)を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為(おこない)にあらわれる。

同 76ページ

これが「ひのきしん」だと教えられるのです。
ところで、「ひのきしん」で大切なことは、信仰に燃える喜びの表れで、その姿は千種万態(せんしゅばんたい)であること。
そして、欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当たるならば、それはすべて「ひのきしん」になるということです。

以前、第3回「心定め」で青年会ひのきしん隊での体験について書いたように、私は今までいろいろな「ひのきしん」をさせていただきました。
その中で、私は何か身体を動かして作業をするのが「ひのきしん」というイメージを持っていました。

もくじ

ひのきしんは千種万態

ところが、三代真柱様の「教祖百十年祭学生おぢばがえり大会」におけるお言葉を読ませていただき、まさに「ひのきしん」について目からうろこが落ちるような感激を覚えたことがあります。
少し長いですが引用します。

ひのきしんになくてはならないのは、親神様に対する感謝の気持ちであり、報恩の気持ちであります。しかしながら、実際には、身体が病んでいる時に喜べる心になるということは、口でこそ簡単に言えても、なかなか心は思う通りに働いてくれません。しかし、そのことが救けて頂ける源(みなもと)になるなら、何とかその道を探り出さなくてはならないではありませんか。

例えば、身体が動かなくても、目を使い、口を使い、言葉を使うという道があります。人の親切を喜んで受け入れる笑顔を作ることもできるのであります。それらの努力は、強いて言うならば、立派なひのきしんの態度だと思う。そうしてそれが、やがては自分自身のその時その時の生き甲斐となり、喜びとなり、その心が救けて頂ける源になるわけであります。

学生担当委員会発行『真柱様お言葉集』 260ページ

修養科での出来事

以前、修養科の一期講師を務めた時のことです。
私の受け持ったクラスに、ある車いす利用の高齢男性(Kさん)が夫婦で志願して来られました。
Kさんは脳血管障害から下半身が全く動きません。
面接で「どうして修養科を志願されたのですか?」と尋ねると、「奇跡が起こることを信じて天理に来た」と言うのです。
私はその言葉を聞いて、「これは大変なことになった」と思いました。
というのも、私は、修養科の講師は学校の先生のように、授業をすればいいのだと考えていたからです。

しかしKさんは、動かない下半身が動くことを願って来られました。
そうなれば、私はもう親神様におもたれするより他はありません。
それからは毎日、朝礼時、午後の授業後、そして「ひのきしん」の後に、Kさんの動かない両足に「おさづけ」を取り次がせていただきました。

1カ月が経ったある日のこと。
全く動かない自分の足に業(ごう)を煮やしたのでしょう。
Kさんは「私はもう家に帰る」と言って来られました。
「毎日不自由な生活だし、いろんな人に迷惑も掛けている。
第一、ひのきしんもできない身体だからね……」と、涙ながらに訴えられました。
Kさんの胸中は察して余りありますが、「そうですか」と言うわけにもいきません。
「Kさんは確かにひのきしんができないかもしれません。でも、できないながらも毎日修養科に通って来られる姿を見て、たすけられているクラスの仲間がいます。その仲間のためにも頑張ってください」と説得しました。

Kさんは「髙見さんがそこまで言うなら……」と渋々承諾してくださったのですが、2カ月を過ぎても状態は全く変わりません。
その頃には、私だけでなくクラスの皆さんがおさづけを取り次いでくださるようになりました。
本部神殿の西礼拝場には、車いす利用参拝者のカーペットがあるのを皆さんはご存じでしょう。
あの場で毎日、取り次ぎをしてくださいました。

ところが、3カ月目に入って間なしのことです。
ついにKさんの足が動いたのです。
「動いた、動いた! 俺の足が動いた。先生見てくれ!」
朝礼の後、Kさんは私の元に駆け寄って来られました。
「奇跡が起こることを信じて来た」、まさにその通りになったのです。
親神様(おやがみさま)のご守護をお見せいただいたのです。

実は、これにはもう一つのお話がありました。
毎日沈んだ表情のKさんに、詰所の先生がおっしゃいました。
「Kさん、せっかく修養科に来たんだから、何か一つ修養して帰りなさいよ」
するとKさんは「身体の不自由な俺に何ができるんだ!」と。
「ニコニコするだけでもいいんじゃないの?」
そんなやり取りがあったそうです。
翌朝、Kさん夫妻は詰所の鏡の前で「ニコッ」とほほ笑んでから修養科に向かいました。
その直後だそうです、足が動いたのは。
喜んだKさんは、「俺は今、天理教の修養をしている。足が動いたから見に来てくれ!」と親戚や友人に連絡を取り、喜びを分かち合ったのです。
その後、修養科を終えたKさん夫妻は、毎月の本部月次祭の参拝を欠かさないという心定めをされたと聞いています。

私はKさんの出来事を通して、三代真柱様がお話しになったことの意味が分かったような気がしました。
今でもその感動に身震いしたことを思い出します。
また、「ひのきしん」の教えの奥深さを改めて考えさせられています。

つづく

※『Happist』2013年11月号より再掲載

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