お道の素晴らしさ

天理教教会本部准員/天理教飾東大教会長 紺谷 清春

第3回「教祖」


教祖はどのようなお方?

教祖中山みき様は、月日(神)のやしろとなられ、親神様のご存在と御心を私たち人間に初めて教えてくだされた方です。『稿本天理教教祖伝』を読むと、教祖のお通りくだされた道を尋ねることができますが、今回はその中から、お人柄や主なご事歴をご紹介したいと思います。

◀︎ご誕生〜子ども時代▶︎

教祖は今から221年前の寛政10年(1798年)4月18日朝、大和国山辺郡三昧田(現、奈良県天理市三昧田町)に前川家の長女としてお生まれになりました。

前川家は大庄屋も務めた家柄で、教祖は何不自由なく育てられましたが、ご幼少のころからほかの子どもたちの喜ぶことをされてはご自分の喜びとされるという、優しく、よく気が付かれる方でありました。

前川家家系図

◀︎中山家にお嫁入り▶︎

教祖は人並み優れたお人柄を見込まれて、わずか13才の若さで中山家にお嫁入りなさいました。エッ! 13才? と思われると思いますが、当時はなるべく早くにお嫁入りして家に慣れ親しませるという考え方があったようです。

教祖は妻として夫である善兵衛様に何一つ文句を言われることなくお仕えなされ、また、嫁としてご両親のお世話を十二分に尽くされました。また、一家の主婦としては、家事全般はもちろん、中山家に仕えておられた多くの人々の面倒を見られ、常に率先して人の倍もの働きをなさいました。このことから、教祖16才の時には、所帯を任せられるようになりました。また、24才からは母親として1男5女をお育てになりました。

教祖の当時のお人柄を伝えるお話として、『稿本天理教教祖伝』には

 或る秋の末のこと、一人の女乞食が、垢に塗れた乳呑児を背負い、門口に立って憐みを乞うた。教祖は、早速、粥を温めて与え、着物までも恵まれた上、

「親には志をしたが、背中の子供には何もやらなんだ。さぞお腹を空かして居るっであろう。」

とて、その児を抱き取って、自分の乳房を含ませられた。



稿本天理教教祖伝 (20頁)

とあり、人としての教祖がどれほど慈悲深く、心優しいお方であられたかを分からせていただくことができます。

中山家家系図

◀︎月日のやしろに▶︎

これまでのお話から教祖がいかにに優れた人格者であったかは想像できると思いますが、実は“中山みき”という女性を親神様がやしろ選ばれたのには大きな理由があったからなのです。

それは、親神様が人間をお創りくだされた時、母親の役割を務めた魂のいんねんを持ってお生まれになったのが教祖であられたからであります(魂のいんねん)

また、教祖が嫁がれた中山家のある所は、親神様が人間を宿し込まれた場所(ぢば)であり(屋敷のいんねん)、さらには、親神様が人間を創造される際、神様として人々から拝されることを約束された年限が到来したことによります(旬刻限の理)

天保9年10月26日。これらの3つの条件(立教の三大いんねん)がそろったことにより、親神様は教祖の身の内へ入り込んで、教祖のお口を通して思召を直接伝えることができるようになりました。

いまなるの月日のをもう事なるわ
くちわにんけん心月日や


(おふでさき 第12号 67)

しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている 


(おふでさき 第12号 68)

◀︎貧のどん底に落ち切られる▶︎

月日のやしろとなられた教祖は、まず、財産を他人に施され、貧のどん底を通られました。それは、貧乏を経験しなければ困難している人の気持ちが分からないとの思いと、持っている物を放して物に対する執着心を去れば、親神様のご守護を直接感じることができて、心に明るさが生まれるとお教えくださいました。

◀︎をびや許し▶︎

57才から安産の許しとしてをびや許しを始められ、これを契機として、お屋敷に多くの方がおたすけを願いに来られるようになりました。

◀︎おつとめを教えられる▶︎

人だすけをはじめ、あらゆるたすけの手段として、69才から85才にわたりおつとめの地歌と手振りをお教えくださいました。

◀︎おふでさきご執筆▶︎

親神様の思召をいつまでも忘れぬよう、またそこから神様の思いを悟るようにと72才から85才にわたり、文字にして残してくださいました。

◀︎赤衣をお召しになる▶︎

親神様と教祖は一心同体であることを周囲の人々に知らしめようとの思いから、77才より赤衣をお召しになられます。

このあかいきものをなんとをもている
なかに月日がこもりいるそや   


(おふでさき 第6号 63)

◀︎ご苦労▶︎

教えが広まるに従って、世間の無理解から反対されるようになります。そのため教祖は、77才から89才の間、17、18度にわたり監獄署などへご苦労くださいました。

◀︎現身をお隠しになる▶︎

教祖は明治20年(1887年)陰暦正月26日、私たち人間の心の成人を急がれる上から現身をお隠しになりました。時に、御年90才。 しかし、姿は見なくなっても、今もその魂は永遠にぢばにとどまって、世界一れつをたすけるため存命のままお働きくだされ、私たちをお見守りくださっているのです。

教祖はどんなお姿だったの?

『稿本天理教教祖伝』には、教祖の面影について、次のように記されています。

 高齢の教祖にお目に掛かった人々は皆、譬えようもない神々しさと、言葉に尽せ ぬ優しさとが、不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも心の温まる親しさを覚えた。

 教祖は、中肉中背で、やゝ上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色もよく、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差しであられた。

 お髪は、年を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真白であられたが、いつもきちんと梳って茶筅に結うて居られ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた。

 眼差は、清々しく爽やかに冴えて、お目に掛った人々は、何人の心の底をも見抜いて居られるというのはこのような眼か、と思った。

 足腰は、大そう丈夫で、年を召されても、腰は曲がらず、歩かれる様子は、いかにも軽やかで速かった。

(中略)

 お声は、平生は優しかったが、刻限々々に親心を伝えられる時には、響き渡るような凛とした威厳のある声で、あれが年寄った方の声か、と思う程であった。


稿本天理教教祖伝 (165〜167頁)

あなたも目を閉じて想像してみてください。教祖の優しいお姿が浮かんできませんか?

つづく


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