老沼育正「自分語り、失礼します。」

もくじ

都賀のJOKER疲れ始める

G・K・Oを目指し、都賀のJOKERとしてご用を勤めさせていただく私。基本的には詰所のご用。そこへ次から次へと放り込んでくる父親。学生会、青年会、教会のご用、信者さんのお世話取り……。

さまざまなご用を勝手に引き受けては私に勤めさせる。さまざまなご用を勝手に申し込んでは私に勤めさせる。最初のうちはありがたかったが、だんだんしんどくなってきてしまった。

「おまえはワシの切り札。どこにでも張れるJOKERだ」。どうも父親は、切り札を最初に切ってしまうようである。

大事故勃発

父親からのご用ラッシュに、いよいよ不足し始めた私。すると、いきなり事件が起きる。詳しくは少年会本部から発行されている「さんさい」立教180年10月号に、私の奥さんが書いてくれたので、それを読んでもらいたいが、要するに3番目の娘が機械に挟まれて瀕死になってしまった。

事故直後、救急車の中の奥さんから「今すぐご本部へ行ってお願いづとめをしてください」と言われたので、詰所で教養掛を勤めていた私は、ご本部へ赴き、お願いづとめを勤めた。しかし、おつとめを勤めながら、どうも納得がいかない。

「なぜ神様のご用を勤めているのに、娘がこんなことになるのか?」「神様なんて本当にいるのか?」と怒りに任せて勤めながらも、奥さんから聞かされた「お医者さんが言うには、今夜がヤマだって。症例が無いんだって。死亡例しか無いんだって」という言葉が頭の中をぐるぐる回る。恐怖と不安で涙がこぼれた。

さらには、神様のご用に対し不足していた自分を後悔した。何としてでも神様にたすけていただきたいと心が切り替わった。

今、自分がお供えできるものはこれしかないと、「これより神様から頂戴するご用、すべて喜んで受けさせていただきます」と、心を定めた。なんともちっぽけな口約束。

しかし、娘はたすかってしまった。たすかってしまったからには、これが答えである。今思えば、これが私の信仰の元一日だったのかもしれない。この日から、私はあらゆるご用を喜んで受けるように変わった。

自分語り、ぼちぼち終わります

自分が得意だから、不得意だから。早過ぎる、いまさら。好きだから、嫌いだから。その日は暇だから、予定があるから。それは関係ない。

大切なのは、受けたご用を勤める中で喜びを見つけられるかどうか。意地でも喜び探し。そうして、喜んでご用を勤めさせていただいていると、少しずつだが分かってきたことがある。

日々喜びを探して生きるということは、面倒くさいけど楽しい。日々文句を言いながら過ごすことは、楽だけど楽しくない。

草抜き一つにしても、身体が自由に動くことに感謝したり、きれいになった庭を見て喜んでくれる人の顔を想像したり、一緒に草抜きしている人と楽しくお話ししたり、相談に乗ったりしながら草を抜いても、「暑いよー、疲れたよー、この鎌、切れ味悪いよー」と文句を言いながら草を抜いても、同じ時間、同じ量の草を抜けば、同じようにきれいになる。当たり前の話である。

しかし、その後、自分の気持ちや自分の周りの人たちとの関係が大きく変わるのは、説明しなくても分かりきった話である。喜んでご用を勤めた結果、私の周りには私をたすけてくれる人がたくさんいる。

そして、もう一つ気付いたことがある。父親は「今、育正はこんなご用を勤めている」といろんなところで話をしてくれていた。そのおかげで、教会につながる方々、初対面の方でさえ私を知っている。既に好感、信頼、下手するとほんのり片思いをしてくださっている方までいるので、何をするにも非常にやりやすい。

もしかすると父親は、むやみやたらに切り札を切っていたのではなく、私が教会長を勤めるための舞台を作ってくれていたのではないだろうか?

「だったら、この最高の舞台で思う存分楽しんじゃおう」と思った結果、父親からの「3年後、教会長就任奉告祭。今日、役員会議で発表した」というメールに対し、「待ってました」とノリで、「了解♪」と送ったのである。

G・K・Oここに誕生する。

(おわり)

1 2 3
この記事をみんなにシェア!
もくじ