はじめに
「たんのう」の教えによって心の闇から救われた15才の私は、さらなるヒントを求めて、積極的に天理教の本を読むようになりました。
そして、次に注目した教えは、「徳を積む」という話でした。
「人の一生は魂の徳で決まる」
書名は忘れてしまいましたが、開いたページに確かそう書いてあったと思います。
徳とは、魂の力、運命を切り拓く目に見えない力で、どんなに財産を持っていて能力や体力があっても魂に徳が無かったならば、結局はうまくいかない。
自分自身が徳を積まなければ、運命を切り拓く力を持つことはできないというものでした。
なぜ自分は、小さい頃から何をやってもダメなのか、親や先生から努力が足りないとよく言われましたが、頭の出来が良くなかったせいか、努力しようにも努力の意味さえもわからずにもがいていました。
「そうか、僕には徳が無かったのか」
その頃は、徳の意味などまるでわかりませんでしたが、何か心に響いて納得できるものがあったのです。
ところで「徳」とは、いったい何なのでしょう。
徳とは?
まず、徳について調べてみると、天保9年に天理教が立教する以前から、もともと日本文化の中で広く根付いていた考え方であったことがわかります。
参考までに、その中の一つで、私が尊敬する江戸時代後期の思想家・二宮尊徳さん( よく小学校にある柴を背負った金次郎像の人) の考え方を紹介したいと思います。
この方は、徳を「米作り」に例えてわかりやすく説明されています。
想像してみてください。
今年、皆さんが食べているお米は、昨年に誰かによって作られたお米です。
田植えの始まる5月に、もう今年作ったお米を食べているという人はいないはずです。
昨年の人が一生懸命に働いて作ってくれたお米を食べて、今年の人は生きている。
昨年は、お米がたくさん取れたからといって、今年は、怠けてあまり働かなかったならば、来年の人は、生きていくために充分な食料を得ることができなくなってしまいます。
昨年の人の働きに感謝して、今年はそれ以上に働いて、次なる来年の人に喜んでもらおうと努力するからこそ、自分も世の中も年々豊かになっていくのです。
徳とは、このお米のようなもので、「徳とは得」、すなわち、得たもの、貰ったもの、与えられたものです。
それに感謝して、今度は自分も努力して働き、さらなる徳を残していくことが、先の人の徳に報いることになり、このつながりが社会繁栄の基礎になるのだと説いています。
ですから、そうやって考えると、学生さんであれば、身体も住んでいる家もお金や食事も自分で生み出したものではなく、ほとんどが親から与えられた徳ばかりです。
だからこそ、それに感謝して今度は自分が将来に向けて努力をする。
自分自身が新たな徳を生み出さなければ、ただ徳を食いつぶすだけの存在でしかなくなり、いつか必ず行き詰まってしまいます。
二宮尊徳さんは、この徳の思想を説いて「勤労」の大切さを世に広めました。
これは、いわば世間一般に知られる「目に見える徳」の話です。
私たちのおやさまは、この「目に見える徳」があるのと同じように、実は「目に見えない徳」もこの世を支配する天の道理として厳然とあることを教えられたのです。
目に見えない徳
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、次のようなお話が載せられています。
教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」と、仰せになった。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』 63 目に見えん徳
こいそは、「形のある物は、失しのうたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」
と、お答え申し上げた。
これだけのお話ですが、これは教祖が、いつも「目に見えない徳」の必要性を教えられていたことを彷彿とさせるエピソードです。
このお話によると「目に見える徳」とは、「形のあるもの」で失くしたり盗られたりしてしまうもの。
言いかえれば、財産や金銭、身体、衣食住といったものでしょう。
そこから考えると「目に見えない徳」とは、逆に形のないもの。
言いかえれば、運とか縁、心の力、魅力、人徳、信用、あるいは天のお導きといったものだろうと想像することができます。
世の中に、努力が報われなかったり、能力や体力に優れていても、出会いやきっかけ、チャンスに恵まれなくてくすぶっている人、あるいは成功者になっても転落してしまう人がたくさんいるように、お道の教えでは、「目に見える徳」をどれだけ身につけることができても、「目に見えない徳」に乏しければ、それを生かしていくことはできないことを教えられているのだと思います。
では、この目に見えない徳は、どうしたら身につけることができるのでしょうか。
それは一言で言えば、親神様に喜んでいただけるような生き方を実践することです。
たとえば、教祖は、一番の高弟である飯降伊蔵先生には、常に、
伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先きでどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受取りはありませんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済になるのやで。
『新版 飯降伊蔵伝』
と教えられたので、飯降先生は、夜な夜な、人知れず壊れた橋を繕ったり、悪い道を直したりして教祖の教えを実践されたと聞きます。
人のためにすることは与える一方なので、自分にとっては、いわば損の道です。
陰で徳を積むということは、自分以外の他人とのために、見返りや報酬や評価を求めないで良い行いをすることです。
おやさまは、それが親神様にお受け取りいただける行いで、目に見えない徳を積むことになるのだと教えてくださっているのです。
徳積みとは?
話は戻りますが、この「僕には徳が無かった」という気づきは、15才の私に確かな目標を与えてくれました。
私は、勉強やスポーツは人よりダメだけれども、おやさまの言われるような徳積み、これなら自分にもできそうだと思ったのです。
そこで、せっかくおぢばの高校に行くのだから、在学中の3年間、教会本部神殿の廻廊拭き掃除を毎日欠かさずさせていただこうと心に決めて実行しました。
果たして、それで私はすごい徳を手にすることができたのかと言えば、そうではなく、実は今もあの頃と変わらず徳はないと思っています。
徳積みとは、生き方であり、人間が豊かに生きるために毎年一生懸命働いてお米を作り続けるように、生ある限り続けるもの。そういうものだと思います。
ただ、高校時代の3年間、陰の徳積みを志して、ほぼ毎日欠かさず一人で黙々と廻廊を拭き続けたことで、ひ弱な心に何やら力がついて大きく成長させていただけた実感はあります。
そして、大人になった今も問題や悩み事は尽きませんが、神様のお導きを肌身に感じながら、どんな時も心を曇らさず、むしろ陽気に晴ればれと暮らせています。
これもきっと目に見えない徳の力ではないかと思うのです。
つづく
※『Happist』2009年7月号掲載