ひいおばあちゃんの話
大学を卒業し、修養科に入った時のことです。大叔母が差し入れを持って会いに来てくれました。楽しく会話していくうちに、自分自身の学生時代の話をしてくれました。
それは太平洋戦争の最中の昭和20年2月、空襲により教会が全焼した時の話でした。会長である曽祖父は神様のお目標様だけを抱いて、教会にいた家族や信者さんと共に命からがら逃げ出すことができました。
その当時、付近一帯では教会にだけ爆弾が落ち、住む家や家財道具一切を無くし、大叔母はこれからどうなるのかと大きな不安を抱いたそうです。
しばらくの間、家族は何人かに分かれて信者さんの家でお世話になり、その後信者さんが建ててくれたバラック※で生活できるようになりました。夜眠る時、天井を見上げるとトタン屋根の穴から星空が見えていたそうです。※ 一時的に建てた粗末な家屋
曽祖母はその星空を眺めながら「あぁ結構だね、ありがたいだろう。これで教祖のひながたの万分の一でも通らせていただける」と言い、そして「どんな中でも喜んで通ってこそ、教祖のひながたを通らせていただいていると言えるんだよ。不足していては教祖のひながたを通らせていただいているとは言えないんだからね」と娘である大叔母に言い聞かせたそうです。
私は当時「ひいおばあちゃんはすごいなぁ」という漠然とした感想しか抱けませんでした。しかし、今では曽祖母がいつも教祖をお慕いし、ひながたを辿る大切さを伝えてくれていたことが分かります。
ひながたを心に置いて
昨年の秋季大祭で真柱様は諭達第四号をご発布くださいました。その中に
おさしづに、
ひながたの道を通らねばひながた要らん。(略)ひながたの道より道が無いで。(明治二十二年十一月七日)
と仰せられている。教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。(中略)ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂ける。この五十年にわたるひながたこそ、陽気ぐらしへと進むただ一条の道である。
『諭達第四号』
(中略)教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである
と、あります。
諭達を拝読し、私の先祖は教祖のひながたを心の支えに命がけで信仰をつないでくれたのだと感じました。
どんな困難なときでも喜んで通った曽祖母の心にはいつも教祖のひながたがあったのだと思います。
今、私は温かい家でご飯を食べ、お風呂に入り、何より元気に過ごすことができています。自分が生かされていること、家族と幸せに暮らせることを当たり前と思わず、親神様・教祖、信仰をつないでくれた親々に感謝して通りたいと思います。
そしていつも教祖のひながたを心において、教祖にお喜びいただけるようぼくに一歩でも近づけるよう努力していきたいです。