坂元香「揺れる橋の先に」

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よう/\こゝまでついてきた

布教の家を卒寮した年のある月に、教会本部の月次祭に参拝していた時の出来事です。当時は、コロナ禍だったので人数の制限もありましたが、どうしても殿内で参拝させていただきたいと思い、お願いを出して昇殿参拝させてもらいました。制限のため、礼拝場の畳1畳につき2人と、間隔を空けて座りました。

その頃、布教の家でお会いしたおたすけ先の方との関係に悩んでいました。私の癖性分が出てしまい、相手を怒らせてしまったり、相手とすれ違ったりという状況が続き、たすかってもらいたいと思っていたはずなのに、うまくいかないことばかりで状況は良くなったり悪くなったりの繰り返し。こんなことしていて何か意味はあるのか……と自分の心の置き所がない状態でした。

そんな中での月次祭。いろいろと考えていたからか、あんなに参拝したいと思っていたにもかかわらず、いつの間にか眠ってしまいました。その時、左肩をトントンとたたかれて、慌てて目が覚めました。びっくりして左隣を見ましたが、当然隣の人は少し離れた距離で参拝されてます。少し混乱している時に聞こえてきたのが、三下り目の四ッ「よう/\こゝまでついてきた じつのたすけハこれからや」のおうたでした。

「ああ、さっき肩を叩いてくださったのはおやさまだ」と、すっと心に治まりました。おたすけの道中、どうしていいのか分からなくなり、恥ずかしながらも全てを放り出したいと思っていた今までの私を「よう/\こゝまでついてきた」と慰めてくださり、「じつのたすけハこれからや」と励ましてくださったのだと感動した瞬間でした。ぐずぐず悩まずに、もうひと踏ん張り頑張ってみようと勇気を頂けました。

揺れても踏ん張って

逸話篇に「宝の山」というお話があります。

教祖のお話に、「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中まで行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。けれどもそこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで。」とお聞かせ下された。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』 171「宝の山」

私は楽な方に流れたり、ちょっと頑張って成果が出ないと諦めてしまうところが今もあります。けれども、この時に感じた教祖の親心への感謝の気持ちを忘れずにいると、神様に心をつなぎ直せます。時には立ち止まってしまうこともありますが、揺れても踏ん張って、この先には私にとっての宝を用意してくださっているんだ! と、喜びに変えて、自分にできるおたすけや親孝行を諦めずに続けていきたいと思います。

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