豊田章宏「おばちゃんの思い出 」

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おばちゃんの思い出

私のことをいつも応援してくれた叔母が、若くして「がん」で亡くなり、はや5年が過ぎました。いつも明るく、天理教の信仰に熱心で、周りの人々に情熱と温かさをもって接し、多くの人を導いてくれた叔母が「なぜこんなにも早く」と思いました。

「そこにはきっと親神様(おやがみさま)の思いがあってのことなんだ」と頭では理解しつつも「なぜなんだ?」と心は追い付いてきませんでした。

叔母が亡くなる直前に、もうろうとした意識の中で、驚くほど強い力で私の手を握ってくれました。そこにはきっと、「あきちゃん、しっかりと頼んだよ!」という思いが込められていたと思います。

叔母のメッセージからは程遠い私の日々の過ごし方に、本当に申し訳ない気持ちになってしまいますが、そのメッセージは今も私の心にしっかりと残っています。

天理教では、この身体は親神様からの借り物だと聞かせていただいています。その借り物の体は、人間の親である親神様が、「人間が『陽気ぐらし』をするのを見て共に楽しみたい」という思召から造られました。

『天理教教典』の第七章「かしもの・かりもの」の中に、「死」ということ、天理教でいう「出直し」についてこのように書かれています。

「身上(みじょう)を返すことを、出直しと仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我(わが)の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。」と教えられています。

親と子の関係も、毎年変わらずに訪れる四季のように、親が子となり子が親となり、長い年月変わることなく、その流れはずっと続いていくでしょう。しかし、毎年訪れる季節の中にも、春・夏・秋・冬とありますが、まったく同じ季節は二度とはやってきません。

その時代に生きた人、その人の歩んだ道は、その人が出直した後も、人々の記憶に残り、時には今を生きる人々の支えにもなることでしょう。

自分が親神様から多くのご守護を頂いて今そこに立っていられること。つないでくれた人々がいて今があることを省みる時、私は「今があるのは当たり前ではない」と改めて感謝の喜びが湧いてきます。

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