飯降信「不自由な時こそ」

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不自由な時こそ

先日、「去年は大難(だいなん)を小難(しょうなん)にしていただきましたね」と知人から連絡があり、1年前の出来事を思い出しました。

その日のちょうど1年前、私はマイクロバスに、はねられるという事故に遭いました。

救急車で集中治療室に運ばれ、しばらくすると、腫れたまぶたの間からぼんやりと病室の天井が見えました。周囲から医療器具の音、そして家族の声が聞こえました。

ぼんやりとした意識の中、目に映るもの、耳に聞こえるもの、すべては親神様(おやがみさま)のご守護なんだとしみじみ感じられ、私はたくさんのものに恵まれて、生きてきたんだと実感しました。

ご守護に気付いた入院生活

入院3日目には、少し水を飲むことができました。口や喉に水が行き渡る、なんとも言えない感覚を味わいました。絶対安静でしたが、少しだけベッドを起こすことができました。

今まで見えなかった病室を見渡せるようになり、妻が持って来てくれたタオルや着替え、知人が持って来てくれた飲み物やヨーグルトなどが見えました。

入院5日目、自分の足で病室を出てトイレに行くことができました。よたよたと進むたびに景色が変わり、外に広がる世界に(といっても病院の廊下ですが)、感動すら覚えました。

普段、何気なく生活しているということは、本当はこんな感動の積み重ねがあって、ご守護いっぱいの生活だったんだと身に染みました。

多くの方が「おさづけ」の取り次ぎに来てくださり、おかげで当初の予定より早い、12日間で退院することができました。これから一日一日を大切に生きないともったいないなと思って帰宅したのです。

足元にあるものに目を向けて

それから1年を経た今、その時の思いは次第に薄れ、あれができない、これもできないと、足りないことを数えて生活している自分に気付くのです。自分がすでに与えられているもの、人からしてもらったことって、どうも忘れやすいものですね。

新型コロナウィルスの影響によって、これまでできていたことができないと不便を感じる日が、まだ続きそうです。そんな少し不自由な時こそ、今、自分が持っているもの、変わらず与えられているものを確認する機会なのかもしれません。

自分の足元にあるものに目を向けて、自分にはこんなことができるかもしれないと、そんな気持ちになって過ごすことができたらと思うのです。

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